横浜市中区関内の鍼灸専門院 「泉堂はり灸院」

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漢方鍼医会での発表・講義録

 

 

 

 

22.東京夏季研会長講義 「心病の治療における四診法の活用」 会長 隅田真徳

 

 今回の東京夏季研では「難経の脈状考察—四診法からのアプローチ」と題されていまして、主題は四診法、なかでも腹診、尺膚診の選経選穴への応用が中心になっていますが、参考資料の中には四診法全体に亘る基本的な知識が古典を丁寧に引用した形でまとめられていますので、皆様も是非ご一読下さい。(非常に文章が上手です。)

 今日は私は心の治療を例にとって診断に関するお話しをしたいと思います。本会も設立後すでに25年ほど経っていますが、ある時期までは心を本治法の対象としてはいませんでした。経絡治療初期の指導者達が『霊枢』邪客篇の記述を解釈し、「心虚証はないのだ」と結論づけた、その影響を長い事ひきづっていたからです。6年前に『新版漢方鍼医基礎講座』を出したときに皆で話し会い「心の治療」を本会でも採用する事となりました。

 つまり以前は五行だ五臓と言いながら実際は四行、四蔵治療であったわけですが、そうではなくなりました。その後程なくして漢方苞徳会の鈴木先生をお呼びしたときに、鍼灸治療は季節によって巡るものだ、というお話しを聞いてから本会の季節の治療の研究が始まることになりました。四行では巡ることはできません。巡るためには五行が必要です。ですからテキスト作成のときの「心の治療」採用はその後の季節の治療導入にとって欠かせない重要な事だったと思っています。

 

一方で未だに「心の治療は本当にあるのでしょうか?」と困って聞いて来る方もいます。聞いてみると「真夏でもなければ洪脈などは滅多に出るものではありませんからね。」と自信満々の回答を頂いたこともあります。確かに「浮・大・散の洪脈でなければ心病ではない」と思い込んでいるとすれば此は心を含む「火経の治療」を試みる機会は相当少なくなりそうです。もちろん火経の治療を施す際には「洪脈」を探す事は基本として心得ておかなければいけない事です。しかし私は心の治療に関しては洪脈のみを手がかりに探しているわけではありません。季節、腹証、病理を総合的に勘案して診断をしていますので、そうした点を丁寧に振り返ることで諸先生方の参考にして頂きたいと思っています。

 

 まず心の正脈とされる「洪脈」について考えます。難経四難では「心肺は俱に浮、何を以てか之を別たん。然なり、浮にして大・散なる者は心なり。」と書かれています。

本義諺解では「本義:心は陽中の陽と為す。

諺解:金匱真言論。九針論。陰陽繋(けい)日月編に、皆心は陽中の陽と為す。下の肺・肝・腎の陰陽も皆な此の三篇に見えたり。心は南方の陽火にして、且つ上焦陽部に位す。故に陽中の至陽とす。

本義:故に其の脈、浮にして大散。

諺解:浮・大・散は皆陽脈の象(かたどり)なればなり。」

 

心の正脈たる「洪脈は浮・大・散」であること。その理由は心の生理作用が陽中之陽であることから最も明らかな陽脈である洪脈が当てられていることがわかります。

私見ですが五臓の脈として挙げられているもののなかで「洪脈」は比較的分かりやすい、捉えやすいと思われている傾向があるように思います。その為先ほどお話ししたように、自信満々に「洪脈ではないから心病の治療はしない」と認識する先生も出て来るわけです。もちろん五臓の正脈、あるいは正脈が過剰である時の病脈を意識する事は基本的な心構えです。一方でそもそも寸口の脈は五臓の虚実のみを映し出すわけではないと言うことも心得ておく必要が有るようです。

例えば、難経七難の以下の文言を読んでみます。

「本文:七の難に曰く、経に言う、少陽の至る、乍(タチマチ)大、乍小、乍短、乍長、

陽明の至る浮大にして短、太陽の至る洪大にして長、太陰の至る緊大にして長、少陰の至るや緊細にして微、厥陰の至るや沈短にして敦(トン)、此の六つの者は、是れ平脉なりや、将(ハタマ)た、病脉なりや。然るなり、皆王脉なり。

 

「本義:少陽の至る陽気尚微なり。故に其の脈乍(あると)きは大乍きは小乍きは短乍きは長

諺解:此より伯仁の言なり。此の注は前文の脈象を解く者なり。少陽至る時は陽氣なお微少にして陰氣稍(やや)盛んなり。故に脈象も亦た此の如く陰陽を雜(まじ)え見(あらわ)す。」

 

「諺解:此陰陽は司天在泉主客六氣の三陰三陽には非るなり。此れ一歳十二箇月の寒熱温涼の氣令を以って三陽三陰の名を配す。少陽とは正月二月は暖温の陽化ありて。炎暑極陽ならざる所を少陽に配す。至其の時に其の脈象の見(あらわ)れ至るを云う。」

 

「諺解:平人氣象論には乍(たちまち)数乍(たちまち)疎(そ)に作る。乍「にわか」の意なり。然れども此皆な四時の王脈なり。豈に乍「にわか」に更(かわ)る変脈あらんや。文選(もんぜん)の長笛賦に乍を以って「あるとき」と和訓す。此の難の乍の字も亦たあるときと訓て可なるべし。言う心は。正月二月は春温暄(けん)暖(おん)の令ありて且つ冬の残寒も亦た行われて。寒温雜(まじ)え存す。故に人身の王脈も亦た正月二月には乍(あるとき)は大腸脈乍(あるとき)は小陰脈乍(あるとき)は短陰脈乍(あるとき)は長陽脈にして陰陽の脈を雜(まじえ)見(あらわ)すなり」

 

つまり「たちまち」の意味は「あるときは」であり、「少陽の至るや乍(タチマチ)大、乍小、乍短、乍長」の意味は寒暖の気が入り交じる旧暦1.2月(太陽暦2・3月)には、脈状はあるときは大、あるときは小、あるときは長、あるときは短脈になる」という意味であるとの事です。季節の変わり目には陰陽の気の不安定さを反映させる如く、脈状も大になったり小になったり、長になったり短になったりする訳です。

 

また『諺解』に例示されている平人気象論篇を見てみるとさらに別のケースが書かれています。

「平人気象論篇

人は水穀を以て本となす。故に人 水穀を絶てば則ち死す。脈に胃気なきも亦た死す。いわゆる胃気なしとは、ただ 真蔵脈を得て、胃気を得ざるなり。いわゆる脈に胃気を得ずとは、肝 弦ならず、腎 石ならざるなり。太陽の脈至れば、洪・大にして以て長たり。少陽の脈至れば、乍(ニワ)かに数にして乍かに疏、乍かに短にして乍かに長たり。陽明の脈至れば、浮・大にして短たり。」

 

「真臓脈」とは体が衰弱した胃の気のない人の脈、という意味なのですが。ここでは胃の気を得ない脈は肝であっても弦ならず、腎であっても石ならず。さらに少陽の脈至ればあるときは数、或るときは遅、或るときは短、あるときは長になる。と書かれているわけです。 この様に寸口の脈状の中には季節の陰陽の気の量や胃の気の不足なども反映され、時に脈状は不安定になるものだ、という事は心得ておかねばならない事なのです。

 

また井上恵理先生の講義でも良く取り上げられていた、『医方大成論』(金元代:孫(そん)允(いん)賢(けん)撰)には暑邪に関してこのような記述が有ります。

「暑の気たる事、天に在りては、熱たり、地に在りては火たり、人の臓に在りては心たり

。これを以て暑の人に中る事、まず心につく。およそ、これに中るものは、身熱し頭痛し、煩渇して口乾く。甚だしき時は昏(こん)して人を知らず、手足微冷し、或いは吐し、或いは寫し、或いは喘し、或いは満す。・・・其の脈、多くは沈伏する。」

 

私がこの世界に入ったときも最初にこの医方大成論の脈状を教えられまして「風が浮洪と寒遅緊、暑くて沈伏、湿沈緩」という歌を覚えさせられました。ここでは「体が熱くなって頭痛がして、喉が渇く」と軽症の熱中症から「気を失って、手足が冷えて、吐いて、下して」という重症の熱中症とみられる症状が書かれていますけれど、暑邪に中った脈は沈伏であると記されています。

 本会の中でも先ず五臓の正脈を教え、正脈が過剰になったいう形での病脈を強調する嫌いがありますが、古典を良く読むと様々な病脈の研究がなされていることがわかります。熱中症的な症状の人はむしろ手足が冷え、脈が細く沈んでいる、そいう時に火経の治療を施すことで脈が柔らかく浮いてきて快方に向かうものです。

 

 

そして西洋薬の影響も考えておかねばいけません。作用の強い薬を飲むと一体に脈は沈んで固くなるものです。私は春先のアトピーや花粉症なども熱が上がって心病が適応する人は多いと思うのですが、強い症状の人ほど抗アレルギー剤や消炎鎮痛剤を服用していて脈状は総じて沈んで固い沈脈です。

(メンタルの影響もある。通院の途中でイライラする事があれば弦脈、笑えば洪脈昨日のテレビのニュースでは、線香花火を見れば脈が遅くなり、吹き出し花火を見ると脈は速くなるという、研究)

 

このように季節の陰陽の反映、胃の気の盛衰、暑邪の表現、薬の影響もあり、よほどの名人でなければ脈状のみですらすらと臓の虚実を判定する事はそう簡単ではありません。ではどのように診断をするのか。そこで大切なのが四診法です。脈状では「洪脈が火経の脈状の要である」ということは頭に置きながらも季節、病症、腹診、などを考慮して証を考える必要があります。季節や症状については既にずいぶんとお話ししていると思います。今日は特に腹診につてお話ししたいと思います。

 

難経16難では心の腹症として「齊の上に動気あり、之を按ずれば牢にして痛むが若し。」と書かれています。本会のテキストでは心の治療の腹証は「心の見所を中心に堅く結ぼれ、胸部は熱感が強く、小腹は冷えている事が多い。」と書かれています。又別の本では「心熱が多くなると小腸経に反応が出て肩こりが強くなる場合がある。或いは舌炎や口内炎は小腸経を用いることが多い。また小腸に熱が多いと胸に熱(触診で確かめる)が出てくる。」との記述もあります。難経の記述は心の腹診の基本を示すものとして重要ですが、テキストには実際の臨床上の工夫が書かれています。小腹あるいは臍のあたりと胸の熱感との対比をして差が大きければ胸に熱在りと診断し、心の治療を試みます。(胸と言っても男性施術者が女性患者の胸を触診しにくいので私は季肋部のあたりで比較します。)胸の熱を見るといって患者の胸部の熱感を見るだけでは不正確なものになる可能性があると思っています。術者の手自体も水道水で手を洗ったり、喫煙をすれば冷たくなりますし、月経や更年期などで手が火照っていれば熱くなったりしているからです。あくまで患者の腹部と胸部の熱感を触診にて比較することで、正確な診断が下せると思っています。(私は特に触診にて腹と胸を比較する心の腹診はわかり安く、良くあたると思っています)

 

そのようなわけで「浮大散」の洪脈のみに囚われることなく、四診法を駆使して頂ければ多くの心病の治療と出会い、五臓の治療がそろえば、季節で五行が巡る「季節の中での漢方鍼治療」の理解も大きく進むのではないかと考えています。

 

 

2,『難経本義諺解』に見る経脈流注の問題

 

 昨年の夏期研で話しそびれた、難経における流注の方向性の問題について考えてみたいと思います。この問題は「陰陽調和の手法」採用とも関係がありますので、是非理解して頂きたいと思っています。以前心虚証の研究の際、内経における流注の方向が必ずしも学校でならったような十二経絡循環の記述のみではなく、多くが馬王堆医書の示す求心走行説(十二経脈全てが求心走行している)に基づいて書かれていることを指摘し、多くの会員が習慣としている循環説に基づく経の軽擦が手の陰経を主証とすることの発見を遅らせたのではないか、という発表をしました。

 資料に馬王堆文書、霊枢根結篇、衛気篇の本標、本輸篇の五輸穴の記述を上げておきましたのでごらんになって下さい。内経学会の荒川先生によると「内経の中では循環理論に基づく文章よりも求心走行説に基づく文章の方がやや多い印象だ。」と言われたことがありますので、こうした表現は内経においては決して例外的なものではないことも申し添えておきます。(馬王堆文書、霊枢経脈篇と『陰陽十一脈灸経』の文章の一致を指摘、霊枢各編を軽く紹介。)

 では難経はどうだろうか、ということは今まで本会ではあまり話題になっていなかったと思います。今回改めて難経における流注の方向を調べてみたところ、こちらも意外と救心走行説に基づくと思われる記述がありました。昨年末より本会有志において江戸時代の鍼灸書ベストセラーの1つである『難経本義諺解』の訓読文製作が進んでいます。読んでみるとこの問題に関して新しい知見が得られましたので、そうしたことも織り交ぜながらお話していきたいと思います。

 

まずこの問題のきっかけとなった二十三難ですね。

二十三難:「二十三の難に曰く、手足の三陰三陽の脉の度数、暁(あきらか)すべき事を以ってせんやいなや。然るなり。手の三陽の脉は、手より頭に至って、長きこと五尺、五六合して三丈。手の三陰の脉は、手より胸中に至って、長きこと三尺五寸、三六一丈八尺、五六三尺、合して二丈一尺。足の三陽の脉は、足より頭に至って、長きこと八尺、六八四丈八尺。足の三陰の脉は、足より胸に至って、長きこと六尺五寸、六六三丈六尺、五六三尺、合して三丈九尺。人の両足の蹻脉は、足より目に至る長さ七尺五寸、二七一丈四尺、二五一尺、合して一丈五尺。督脉任脉は、各々四尺五寸、二四八尺、二五一尺、合して九尺。およそ脉の長さ一十六丈二尺。此れ謂る十二経脉長短の数なり。」

経脈の長さを測ってみたという記述ですが、明確に「手の三陰の脈は手より胸中に至る」「足の三陽の脈は足から頭に至る」と書かれています。「手の三陰」「足の三陽」と要約して書かれているので、理解しやすいですね。

 これは『霊枢』脈度編の引用なのですが『本義諺解』を見ると、滑伯仁は本来の主題である「経脈の長さ」ではなく、「経脈流注の方向」に対して資料にあるように長い注釈を付けて、いわゆる十二経絡循環説による流注の方向を主張しています。それに対して岡本一抱の『諺解』ではいちいち『本文には「手従り胸中に至る」と有り・・本文には「足従り頭に至る」と有り。』と事実を指摘した上で『経脈の始終は、常に此の如くなるに、本文には、皆な手足より言い初めて異なる者は、何故ぞや。』と疑問を呈するという記述になっています。

 

本義:経脈の流注を按ずるに、則ち

諺解:経脈の流れ始まる所と注ぎ終わる所とを按ずるに、本文の旨と異あり。

本義:手の三陽は、手従り走りて頭に至り、手の三陰は、腹従り

諺解:実は蔵より起こるなり。

本義:走りて手に至る。

諺解:本文には「手従り胸中に至る」と有り。

本義:足の三陽は、頭従り下り走りて足に至る。

諺解:本文には「足従り頭に至る」と有り。

本義:足の三陰は、足従り上り走りて腹に入る。

諺解:経脈の始終は、常に此の如くなるに、本文には、皆な手足より言い初めて異なる者は、何故ぞや。

本義:此れ経脈の度数を挙ぐ。故に皆な手足自(よ)り言う。

諺解:此の難には、惟だ経脈の長短の度数を挙げて論ずるが故に、其の始終の常行に拘(かか)わらずして、皆な手足より言い初めたる者なり。蓋し尺度を察する者は、手足従り測るときは、則ち其の数を得易きに取るなり。

 

 岡本先生の結論は計測しやすい方向と言うことで、手足から計ったということだろうと結論づけています。(これは中途半端な結論ですね。どちらから計っても同じようなものです。パンダの赤ちゃんが生まれたときに毎度体長を計測するシーンがニュースがで流れていました。必ずお尻から鼻先まで計っていました。パンダが嫌がるので逃げないようにそうしているのかどうか知りませんが、人間は動きませんから。)漢代初期まで存在していた「経脈求心走行説」の存在というものを知りませんから、無理のない事でありますが。

 

この二十三難が奇妙なのは前半では「救心走行説」に基づく文章がありながら、後半ではそれを打ち消すように「十二経絡循環説」の説明が載っている事です。後半には経脈の長さの問題は消えていて、不自然です。西岡由記先生も著作の中で「矛盾している」と書いておられます。そう感じるのはどうやら西岡先生だけではないようです。

『難経本義諺解』には序文の本文に入る前の資料集の中に「闕誤(けつご)緦類(そうるい)」という1節があります。難経の中の欠文や書き間違えに関する記述を集めた節なのですが、その中にこの問題が出てきます。資料にあるように、

本義:二十三の難に、「経云う明らかに終始を知る云云」の一節、謝氏は謂らく下篇の前に在るべしと。必ずしも然からざるなり。只叅(まじ)え看(み)よ。

諺解:謝氏が意は二十三難の明知終始以下は悉(ことごと)く下の二十四難の首に在るべき辞となり。必然からずなり。只参看とは伯仁の言うなり。謝氏の如くに必ず此れ二十四難の首に在るべしとは見べからず。只やはり二十三難の中に在らしめて、只二十三難、二十四難と两篇参合して攷(かんがえ)看よ。

 

と書かれています。謝氏とは「謝縉孫(しゃしんそん)」という元の時代の学者でやはり難経の注釈を書いた人です。滑伯仁のより前の世代の学者が二十三難の後半の文章はここにあるのは不自然、といっているわけです。

 

さらに、三十七難では「五臓の気の発起」という表現で五臓が皆顔面の七竅に至る事が書かれています。そして滑伯仁は「愚按ずるに五蔵の發起の当に二十三の難、流中の説の如くなるべし。」と書いています。滑伯仁先生からみても、これは二十三難と同じ「求心走行説」の流注の方向性を示している。と読んだということなのでしょう。(同時に滑伯仁が如何に二十三難が気になっていたかを示しているかもしれません。)

 

 

また四十七難には「どうして顔面部は寒くないのか?」という問いに対して「諸陰の脉は、皆頸胸中に至りて還える。独り諸陽の脉は、皆上りて頭に至る。」と書かれています。さらに要約されている明確な求心走行説の文章と見えます。

 

六十三難では「十変に言う 五蔵六府榮合 皆な井をもって始となる者は 何ぞや・・」つまり」十二経の五行穴が全て指先の井穴から始まると書かれています。

 

六十五難も「経にいわく 出ずる所を井となし 入る所を合となす その法いかん・・」つまり経脈は井穴から合穴にかけて流れると書かれています。

 

六十六難には「心の原は大陵に出で、・・・」太陵穴が心経の原穴と記されています。滑伯仁も岡本一抱も『霊枢』を引用したと書いていますが、これは求心走行の時代は十一経脈だったのでまだ現在の少陰心経がなく、厥陰心包経が「心経」と呼ばれていた時の名残だろう、と中国の学会では言われているそうです。

 

また『難経本義諺解』のどこかに岡本一抱の言葉として「循環理論に従って走行しているのは営気であって衛気ではない」と書いている箇所があります。確か「或る人の曰く」から始まっていたと思います。鍼灸界にはその様な説が有ったようです。

 

翻って十二経脈循環説側の文章はというと同じ二十三難の後段で太陰肺経から厥陰肝経に至るという文章が載っています。又その他脈診で寸口部を用いるのは、経脈は太陰肺経を起点として循環するので、肺経の経脈を用いるのだといった循環理論を前提とした記述も散見されます。

 

誤解して頂きたくないのは、私は「経脈は実は救心走行に走っているに違いない」と主張するつもりは全くないと言うことです。私には正直経脈流注の方向性はわかりません。あくまで原典の記述にこうした事実があることを指摘した上で、経脈の横方向の流れのみではなく、経穴における「内外」への「出入」という縦の流れにも目を向けて頂きたいという趣旨でお話しさせて頂いております。

七十二難には「経に言う よく迎随の気を知りて これを調えしむべし 調気の方 必ず陰陽に在るとは 何のいいぞや。

然るなり いわゆる迎随は 栄衛の流行 経脈の往来を知るなり その逆順にしたがいてこれを取る 故に迎随という

調気の方は 必ず陰陽に在りとは その内外表裏を知りて その陰陽にしたがいて これを調う 故にいわく調気の方は 必ず陰陽に在りと。」と書かれています。

 

これを読めば補寫方の眼目には迎随と共に内外、表裏の調整があることがわかります。

経穴上に於いて内外表裏を調整することは則ち「陰陽調和の手法」が提唱する「鍼を押し入れ」「引き出して」と上下に操作する事に重点を置く事に他なりません。

本会では多くの先生方が「衛気と営気の手法」を用いておりますので、それを否定するものでは全くありません。あくまで「衛気と営気の手法」に加えて「陰陽調和の手法」を加えることで、会としての補寫の手技がより難経の真意をくむものになり、臨床的により効果的なものになる事を願っております。

 

陰陽調和の手法の説明は夏季研テキストの中にあります。新たに斉藤充先生が丁寧に古典に忠実な表現で書き下ろして頂いていますので、ぜひ良くお読みになってみて下さい。

最後に私が感じる「陰陽調和の手法」の手法の良い点をいくつか上げたいと思います。

1つ目は鍼を引き上げる動作が寫法であると明確に書かれていることです。昨年もお話ししましたが、本会でも以前は虚を補い実を寫すということは行われていました。それは難経と言うよりも主に霊枢の九針十二原編をはじめとする記述、あるいは杉山流三部書など江戸時代の鍼灸書に基づくものに、当時の会の幹部の先生方が臨床の中から築いてきたコツを加えたものでありました。私の感覚から言えば寫法の要は鍼を抜く、或いは引き上げる動作の中にあります。その点で「陰陽調和の手法」には瀉しているという実感があります。

 2つ目は「刺し降ろす」「引き上げる」という操作に注目することで自然と針先に意識が集まり、集中力を得やすく感じます。

3つ目は「平補平瀉」への転換が容易であると言うことです。私見ですが、虚実を定めがたいときは、気を得た時点で操作を終了し、静かに抜針を行えば平補平瀉となると考えています。中国思想の要は「中庸」です。物事は必ずしも白黒を決められるものばかりではありません。白黒を決められないという曖昧な余地を認めることが「中庸」と考えても良いかと思っています。虚がなければ実はなく、実があれば必ず虚がある理論は、正に「中庸」の必要を感じさせるものではないでしょうか?虚実と補寫の出発点の難経にも「補してから瀉す」「瀉してから補う」の手法があること。中国鍼灸が中世以降徐々に「平補平瀉」を認めてきたこと。日本でも江戸時代の書「杉山流三部書」にはすでに補寫の記述がないことなども、会として今後真剣に考える必要が有るのではないかと考えています。

(その方が本会が行っている「鍉鍼による本治法」を明確に肯定できる道である気がしています。)

201808

 

 

 

 

21.漢方鍼医 巻頭言「日本内経学会30周年記念大会に出席して」 会長 隅田真徳

 

平成30年4月30日、九段の二松学舎大学の中州記念講堂で開催された「日本内経学会30周年記念大会」に招待され出席した。主題は「内経学の系譜と漢学教育」。

第1部講演会は基調講義Ⅰ「血気―『黄帝内経』の門を開くための秘密の鍵」中国 中医科学院 首席教授 黄 龍祥。基調講義Ⅱ「日本における内経の受容と変遷」北里大学 客員教授 小曽戸 洋。

第2部シンポジウム「内経学の歴史と現況」は「中国における内経学の歴史と教育の現況」明治国際医療大学 特任准教授 斉藤 宗則。「明治期における日中医籍交流」二松學舍大学文学部 教授 町 泉寿郎。「近代日本の内経学の発展と普及」日本内経医学会 会長 宮川 浩也 であった。

黄 龍祥先生は、中国内経学の第1人者で、『黄帝内経』をユネスコの世界遺産に登録した際の尽力者でありながら、内経学会幹部とは長年の親しい交流がある。老官山の出土物研究など最新の中国学会情報はこうした交流で日本の鍼灸界に入ってくるという事らしい。講義では日中両国の内経研究の歴史に触れ「私が最も影響を受けたのは森立之の『素問攷注』である。」と幕末の考証学者の名前を挙げた。さらに内経で最も重要なのは「九鍼十二原篇」と「官能篇」であり、内経理解の秘密の鍵は「血気」の2文字である、とのことであった。聞き終えて、正直「難解な内容」と戸惑っていたら、司会の宮川先生の「私にとっても難しいお話しでした。」のセリフに会場中がどっと沸いた。その後小曽戸先生が「今更『素問攷注』でもありますまい。馬王堆や老官山の古医書が我々をさらなる高みに誘うはずです!」と仰ったことが、学会の今後の流れを示したように思った。

 夜の懇親会ではまず東方会の小野博子先生にお会いして漢方鍼医会で東方会出版の『難経本義諺解』をデーター化する作業が進行中であることを報告し喜んで頂いた。お父様の小野文恵先生によく似た笑顔だった。

 来賓席の向かいが東洋はり医学会の谷内秀鳳新会長であったので、ご挨拶をした。30年前には谷内先生も東洋はりの若頭といった処で、私も夏季研の夜にお酒の相手をした記憶がある。毎日筋トレを欠かさない太い二の腕を自慢したりと、昔と変わらぬ元気な先生であった。

 伝統鍼灸学会の「用語集」作成作業でメールの行き来が多い斉藤宗則先生にも初めて直接挨拶できた。「ISO対策大変ですね」と水を向けると「日本の古典鍼灸を守らねばなりませんから」と仰るので、「いざとなればISOから脱退すれば良いんじゃないですか?」と呑気なことを言ってみたが「日本はWTOに加盟しておりISOで定められた基準を遵守するという国際条約を既に批准しています。放っておけば大変な事になりかねないのです。」とのこと。真面目な情熱に圧倒され、本会として出来ることは協力する旨申し上げた。

 宮川会長は来賓の応接等大変忙しそうなので、軽い挨拶だけにとどめ、あとは荒川先生と話をして過ごした。「内経学会にとっては今日の大会がビッグイベント。これが終われば手が空くので、『諺解』ファイルの校正に取りかかるのに今が丁度良い。」とのことであったので、早速そのように手配する旨約束して会場を後にした。

201806

 

 

 

 

 

20.平成30年春 会長講義 「季節の中の漢方鍼治療・雨季を考える」  会長 隅田真徳

 

1.過去2年間にわたって「季節の中での漢方鍼治療」を研究部でのテーマとしてきました。五季と六気にわけたうえで五輸穴或いは五行穴を使い分けていくという選経選穴法です。

もとより基本的な季節のリズムを知ることは選経選穴の大きな助けになります。そして何よりも季節に応じた治療は原典を通じての古典医学の大きな命題であり、この季節の治療を理解することは古典医学そのものが内包する「天人相応」の哲学を深く理解する道でもあります。我々は古典鍼灸の復興と発展を標榜する会として決してないがしろにしてはいけないポイントなのです。

こうした認識のもとに今年はさらに「季節の中の漢方鍼治療」を一歩進めていきたいと考えています。焦点を「雨季」に置きます。

原典を読むと季節の分け方にいくつかの種類があることはご存じの通りです。

難経でいえば七難には一年を六等分した「六気」があります。十五難には「春夏秋冬」でみる四時が出てきます。五十六、七十四難には「春・夏・季夏・秋・冬」の五季が出てくるという具合です。今日は「六気」にはふれません。なぜ四時と五季2つの分類があるのか、という点を皆で考えながら話を進めていきます。

 

2,歴史と地理

 それではここで簡単に古代中国の歴史と地理を振り返ってみたいと思います。図表資料の①は中国全土の詳しい図です。黄河と長江という二つの川が書かれています。いくつかカラーペンで都市の名前をマークしました。②は古代からの王朝の歴史です。まずはこの二つを見比べながら話を聞いて下さい。最初の王朝は紀元前2000年頃に成立した

 「夏」です。(この「夏」は伝説の王朝と言われていて、実在は確認されていません。しかし中国では解放後中国史が大きく書き換えられていて、「夏」も存在していたと言うことになって学校でも教えられています。我々も中国でよく話していたのですが、「中国の歴史は段々長くなっていないか。」と。子供の頃は「中国3000年」と聞いていた。その後ラーメンのCMで「中国4000年」と言うフレーズを聞くようになった。上海に来てみると中国は「5000年」と言い始めている。何でもエジプトの歴史が5000年、と言う話を聞いて「四大文明の一つである中国も5000年有るはずだ」と共産党の偉い人が言ったので、5000年ありきで歴史を語ることになった。そんな話も聞きました。今回調べてみても欧米の学会では「夏」王朝は今も伝説扱いと書いてありました。しかし例え王朝は無くとも数々の遺跡から見て4000年前から黄河下流域一帯では次の時代に繋がる大規模な人の暮らしがあったことは紛れもない事実です)

 次いで紀元前1600年頃に「夏」を滅ぼした「殷」が成立します。「殷」も以前は伝説扱いでしたが、20世紀初頭に河南省の黄河流域の「殷虚」という村から深さ20メートルを超える大規模な墳墓や大量の甲骨文字などが発掘されて以来、間違いなく存在していたと言われています。そして紀元前1000年頃に「殷」を滅ぼした「周」王朝が成立します。「周」王朝は徐々に分裂して春秋時代、紀元前400年ごろには完全に滅び、戦国時代に突入していきます。

なぜ春秋時代、という区分があるかというと、この時代「周之《春秋》”、“燕之《春秋》”、“宋之《春秋》”、“之《春秋》」といった歴史書が書かれていたことに由来しています。

中国ではそもそも殷代の甲骨文字の時代には1年の季節は春と秋の二つしか有りませんでした。その時代は1年を10ヶ月で区分し春と秋で5ヶ月づつ分けられていた、と言うことが分かっているそうです。その為1年間の流れ自体を「春秋」というようになり、転じて「歴史」や編年体の歴史書を「○○春秋」というようになっていきます。

 

 では今度は「季夏」という言葉について考えます。季夏という言葉の語源は『呂氏春秋』(BC239年)に出てくる「十二紀」です。『呂氏春秋』は秦の呂不韋(りょふい)が学者に命じて編集させた書で、諸子百家の思想をはじめ天文・地理などの学説や伝説に至るまで網羅する百科事典の様な書です。

「十二紀」とは、資料にあるように、孟春(もうしゅん)、仲春(ちゅうしゅん)、季(き)春、孟夏、仲夏、季夏、孟秋、仲秋、季秋、孟冬、仲冬、季冬と一二ヶ月に付けられた名前のことです。この孟・仲・季ですが、これは中国では兄弟の順番を表すのにも用いられています。字(あざな。本名の代わりに使われる別名)にこの文字を使う場合もあって、字の文字でその人が兄弟の何番目なのかが分かります。孟とつけば長男、仲なら次男、季なら末っ子を表すといった具合です。資料にあるように、例えば孔子の字(あざな)は「仲尼(ちゅうじ)」。これからすると孔子は長男ではなく兄がいることが分かります。また孔子の一番弟子を以て任じた子路は、季路とも呼ばれることから男兄弟では末っ子だったということが分かります。

 つまり「孟春」とは春の長男、「仲春」は春の次男坊、「季春」は春の末っ子(三男坊)というわけです。そういうわけで「季夏」とは夏の末っ子、旧暦の6月そのもののことを指します。その後「五行論」の流行を経て、従来「四季」で区切っていた中国医学に季夏を加えて「五季」となったと考えています。では旧暦6月、太陽暦でいう7月に鍼灸治療に大きな変更を加えるべき何があるのでしょうか?何があるか、といえばそれは梅雨だろうと思うわけです。そもそも私は鍼灸師としてかけだした頃から、「梅雨時には湿気が多くなるので、脾病が多くなる。土経、土穴を優先せよ」ということは先輩方から良く聞いていましたので、それは私にとって自然な発想でした。

 古代中国は北部(華北)の乾燥地帯を発祥地とします。一定の雨季もあるとはいえ、季節は春夏秋冬の四季で分けるのが自然でした。歴史の変遷と共に南部の温暖湿潤な「梅雨」のある「華南」地域が漢民族の活動範囲に入ってきたその時に、(後ほど話すように)五行論の提出と流行が有りました。自然な成り行きとして夏の三男坊である旧暦の6月が「季夏に輸を刺すべき」季節として書き加えられたのではないか、と考えています。

 古代中国における季節の数え方は、殷代の「春秋」という二つの季節から戦国時代に「四時」という春夏秋冬へ、漢代の「春・夏・季夏・秋・冬」の五季、後漢の難経七難の「六気」、唐代素問運気論の「六気」という流れになっているわけです。

 

 では地理の勉強もしましょう。この地図で先ず山東半島を見つけて下さい。黄海に大きく突き出た半島で根本に「青島(ちんたお)」という有名な都市があります。(日清戦争のあとにドイツの植民地になった関係で近代的なビール工場があり、今でもうまいビールを世界に輸出しています。)

 山東半島の北側で黄河が海に注ぎます。黄河の流れを西に戻って下さい。先ず「済南」がありますそして「鄭州」。そのあと「洛陽」がありますね?洛陽は「千年の都」と言われています。周の時代には既に都が置かれていました。(日本では小説「杜子春」の舞台で有名でしょうか。遣唐使として唐の都長安へ向かった日本人は必ず洛陽を通ります。長安に劣らぬ繁栄ぶりを見せる洛陽に感銘を受け、平安京を作るときに西半分の「右京」を「長安城」、東半分の「左京」を「洛陽城」と呼び、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。)そしてその西側に「西安」があります。「西安」は大唐の都「長安」です。西安も周の時代には既に大きな都市だったようです。(洛陽と西安の間に険しい地形の「函谷関」があります。険しい上りの渓谷が数十キロに渡って続きます。戦国時代には秦がここに難攻不落の関所を作り、守りの要としました、遣唐使達は洛陽の都を見た後、険しい函谷関を通って唐の都長安に付くわけです。日本でも古来から「函谷関」は険しい山の代名詞として歌などにも歌われてきました。)

 

 山東半島の全体から黄河流域を西にさかのぼり西安を含み地帯を黄色い線で囲みました。ここが俗に云う黄河流域です。中国古代文明を「黄河文明」とも別称されていますが、それは具体的にはこのエリアを指して云われています。漢民族は二千年以上にわたってこの黄河下流の流域で暮らしてきた民族です。(黄河を少し詳しく見てみましょう。黄河の源流はヒマラヤの山中にあります。蛇行しながら東進して蘭州にいたります。蘭州を過ぎると大きく曲がって数百キロ北上します。そのあとまた東に向かい、フフホトの南あたりでさらに曲がり南下します。西安と洛陽の中間あたりでまた向きを変えて東に進み山東半島の北側で海に注ぎます。この長方形の土地の内側を古来オルドス地方といいます。名前から分かるようにここは漢族の土地ではありません。北方騎馬民族の土地です。つまり乾燥して耕作には適さない土地というわけです。大きな川が流れているのにと不思議に思うかも知れませんが。標高の高い黄土高原が広がっており、草しか生えない黄色い大地の渓谷のはるか下を黄河が流れていく、という地形なのです。洛陽も標高が140メートル、西安に至っては400メートル有ります。北部の都市の標高の高さも水が少なく空気が乾燥していることの原因の一つです。漢族は歴代このオルドスの南側に万里の長城を築いてきました。)

 中国は北(華北)と南(河南)で大きく風土が変わります。北は空気が乾燥していて、黄河以外には河川が少なく、しばしば少ない水利を争って戦争が起きます。畑には小麦畑が広がります。主食は麺や包子(ぱおず)、ワンタン、餃子といった小麦製品です。小麦のルーツは中央アジアの高原地帯ですから、冷涼で乾いた土地を好みます。小麦の栽培は降水量の多い土地ではむしろ育ちにくく、乾燥地帯にむいています。また華北にも雨季はありますが元々降水量の少ない土地なので、雨季であっても健康を害するというより少ない緑をようやく潤す程度の量です。こうした事情は21世紀の今日ますます甚だしくなっており、華北の水不足、砂漠化はますます深刻になり、黄河が断流する現象も毎年のように起きています。近年では南部への遷都さえ議論されています。

 

 河南地方は長江を中心として大小の河川が縦横に走り湖沼の類も多い。その為湿度が高く、緑も華北に比べれば格段に豊かです。水が豊かなので古来から稲作農業が発達しました。①の地図で長江の中流域と上海を中心とした下流域の二カ所に茶色の円が書いています。それぞれが数千年前の初期稲作農業の遺跡が見つかっている土地です。コメは高温多湿なモンスーン地帯の東南アジアを原産地としていますから、温暖で多湿の土地に適しています。また春先の田植えから秋までほぼ半年間田んぼに水を張りつづけなくてはいけませんから、稲作が出来るということは温暖で充分な水量が確保できる土地であるということなのです。河南地帯の主食は米です。雨季が有りますが、特に長江中下流域から上海から南の福建省のあたりまでは一ヶ月の間に集中的な降雨量がある「梅雨」があります。(福建以南も雨季はありますが、3ヶ月ほど、夕方だけザッと降ってカラッと晴れるといった東南アジア型の雨季で、中国では梅雨とは分類していません。)時期は南の台湾や福建あたりは5月中旬には梅雨に入ります。これは日本の沖縄とほぼ同じ時期です。そして梅雨は徐々に北上します。上海が梅雨の北限とされており、6月中旬から7月中旬のほぼ一ヶ月続きます。梅雨の間は高温多湿の不快な季節が続きます。しかし多雨、多湿が稲作のために決定的に重要であることは日本と同じです。①の地図で赤く囲った地域が梅雨のある地域です。朝鮮半島は南部のみ。日本は北海道を除く全域です。(こうして中国の梅雨のエリアを眺めて理解できることは、「梅雨」という現象は天候だけで起きるものではないということです。温暖湿潤という基本要素の上に、大きな川沿いや海沿いの条件が重なってはじめて「梅雨」が起きる。川や海がもたらす恒常的な湿気も「梅雨」の発生にとって必要なもののようです。まさに天と地の恵みなのですね。日本は海に囲まれた細長い島国なので、日本人はそのことに気づかなかったわけです。天地人と言いますが、梅雨を考えた鍼灸治療を行う事でまさしく我々の治療も天にも応じ、地にも応じた治療になっていくんだという風に言えるのではないか。)

 

 南部では水不足はまずありませんが、水害はしばしば発生します。(1931年には雪解け水と春先の豪雨で長江の水位が上昇。梅雨に入ると一段と降水量が増え、夏にかけて相次ぎ堤が決壊。長江流域の大都市が次々と洪水に飲み込まれました。洪水とその後に起きた伝染病で一節には400万人の死者が出たといわれています。また1998年には6月の梅雨の時期から始まった大雨が5ヶ月間続いた結果長江の堤が方々で決壊し、被災面積は21.2万平方キロ、被災者は2億4千万人。死者は3000人を超え、倒壊家屋は約500万戸、家を失った人は1400万人という大災害となりました。2016年にもその時に次ぐ水害があり、3000万人が被災し、180人の死者がでました。)洪水が広い範囲で起きるということは、標高が広い範囲で低いことを示します。標高が低いので湿度の害もまた大きいのです。華北とは全く異なる河南地方の風土を理解出来たかと思います。

 

歴史に戻ります。周王朝が衰えた結果戦国時代に入っていきます。図表資料の③は紀元前265年ぐらいの秦の始皇帝が生まれた頃の戦国七雄の図です。ここに至ってようやく河南の土地が「楚」の領土として漢民族の領域となって来たことがわかります。このころ各国は争って学者を食客として養い、国家経営の助けとしました。斉の人「鄒衍(すうえん)」は中でも有名な学者でした。彼は王朝の交代は五徳終始説(五行の持つ徳によって王朝が交代する)によるという説を説きました。「王朝の交代には一定の順序があり、王朝がまさに興ろうとするときは、その徳に応じて瑞祥(ずいしょう)が現れるというのである。その五徳の推移は、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つという五行相勝(そうしょう)(相剋(そうこく))の順序である。そして、秦(しん)以前の4王朝を、黄帝(こうてい)を土徳、夏(か)の禹(う)を木徳、殷(いん)の湯王(とうおう)を金徳、周の文王(ぶんおう)を火徳にそれぞれ配当し、五行相勝説によって前王朝から次の王朝に移るとし、最後は水徳である秦(しん)王朝が政権をとり、これこそが永久性と絶対性とをもつ真の王朝であると説くのが、本来の五徳終始説である。」俗に「五行説の流行はまず相克関係から始まった」といわれるのはこの五徳終始説の流行のことをさしているようです。(漢代になると、漢を火徳とし、伏羲(ふくぎ)(木徳)、神農(しんのう)(火)、黄帝(土)、朱宣(しゅせん)(金)、(せんぎょく)(水)、帝(ていこく)(木)、堯(ぎょう)(火)、舜(しゅん)(土)、禹(金)、殷(水)、周(木)とする五行相生(そうせい)による五徳終始説)その後前漢の中期には「董仲舒(とうちゅうじょ)」が現れて陰陽五行説を完成させ、陰陽五行の大流行をもたらします。

 

「秦」が次々と隣国を攻め滅ぼし、中国を統一します。しかし始皇帝が死ぬとたちまち世は乱れ、反乱軍が方々に立ち上がります。「秦」王朝は統一から僅か15年で滅びました。滅ぼしたのは「楚」の出身の「項羽」です。(私が20才ぐらいの時に司馬遼太郎の「項羽と劉邦」という小説が発売されまして、その日は山手線の中の中吊り広告が全て「項羽と劉邦」の広告だったという日が有ったことを覚えています。「百戦百勝最後の一戦に敗れて滅んでいった項羽と、百戦百敗最後の一戦に勝利して400年の漢帝国を打ち建てた劉邦の物語」と書かれていました。)項羽は「楚」の将軍の家系の人です。上海のちょっと南あたりの土地の人です。8000人の楚兵を率いて長江を渡り秦末の動乱に名乗りを上げました。軍事的な才能に長けた人で戦えば必ず勝ちました。しかし短気で粗暴な面があり、降参を許さず敵は住民ごと皆殺しにすることを重ねたため多くに人の恨みを買いました。一方劉邦は町のごろつきの兄貴分でしたが、人徳があり人の意見を良く聞き、また降参した敵はこれを許す人であったため負けても負けても逃げたところに人々が集まってきて最後の一戦で勝利して漢帝国の祖となりました。 

 

 この二人の戦いを中国では「漢楚の戦い」と言い司馬遷の史記には詳しく書かれています。漢楚の戦いの初期、彼らが目指したのは秦の滅亡であり、秦都「咸陽」を落とすことでした。この「咸陽」での両者の行動がその後の漢楚の運命を暗示するものとなりました。劉邦は難関の「函谷関」を避け西側の四川省から山越えのルートを取ることで先に「咸陽」を占領します。劉邦は占領すると早速町の顔役を集めてこう宣言します「私の法は三章で足りる。殺すな、盗むな、傷つけるな。法を破るものは劉邦これを許さず。以上」人々はそれまで通りの生活を許されました。劉邦のあとに項羽がやってきました。項羽は正面玄関である函谷関にむかい、秦の精鋭の軍団と戦い、これを下します。降参して武装解除した二十万の秦の兵隊を全て生き埋めにして殺してしまいます。二十万の若者の死を嘆く数十万の人々の嘆き悲しむ声がこだまする函谷関を恐れることなく駆け上った項羽は宮殿に駆け行って、秦の皇帝一族と官僚四千人を皆殺しにし、宮殿のみならず始皇帝の墓を暴いて全ての宝物を盗み出し、宮殿と町に火を放って立ち去りました。人々は寛大な劉邦に好感を抱き、残虐な項羽を激しく憎むようになりました。漢楚はこのあと5年に渡って中国全土を舞台にして戦いを続けます。項羽は常に優勢でしたが人望がなく、人々は去っていきます。劉邦は総じて劣勢でしばしば逃げ回りましたが、人徳があり人々が彼の周りに集まりました。最後に項羽の軍は疲れ切り「垓下」という小さな城に追い詰められます。付き従ってきた兵達も日に日に少なくなります。或る夜、城の外から項羽の国「楚」の歌が聞こえてきます。その歌声は次第に大きくなり、城壁の外全体から聞こえるようになります。「既に我が兵の多くは敵に下ったか。万事休す」と悟った項羽は夜明けと共に城門を開き最後の突撃に移ります。個人としても非常な武勇の人だった項羽は少数の親衛隊と共に漢の包囲網を突破し、ひたすら南へ南へと走っていき遂に長江沿いの村にたどり着き、そこで一人の老人に出会います。「大王、私はあなたを知っています。どうぞこの渡し船にのって長江を渡って下さい。このあたりには他に船がないので漢の兵はあなたを追うことはできません。」しかし項羽はこの申し出を断ります。「5年前に八千人の若者を引き連れてこの河を渡ったのに今は全て死なせてしまった。彼らの父兄にたいして恥ずかしい。天が私を滅ぼそうとしているのだ。」馬首をめぐらせて漢軍の群れに再び向かい死んでいきました。

 

 この項羽と楚の軍団の北上と五年間にわたる中国全土の席巻こそが中国史上初めて南の五季の国の人が集団で北の四季の国にインパクトを与えた最初の事件である、と言うことを司馬遼太郎が書いています。

司馬遼太郎は「揚子江周辺で暮らしていた稲作集団である楚は、黄河流域で形成された中国文明にとって最後の異質文化を持った異分子であり、この楚人達が項羽によって率いられて大陸を席巻したことにより楚人の稲作と湖沼の文化が投げ込まれ、このことが多民族多文化が混淆して成立した中国文明にとっての最後の総仕上げとなり、「汎中国的なものへの最初の出発点」となった」と評しています。

図表資料の④は前漢の地図です。長江流域はもとより南は北ベトナムの交趾(コーチン)までが漢民族の領土となったことが分かります。

 黄帝内経が完成したのは前漢末期と言われています。さらに難経は200年後の後漢末の作と推定されています。2000年以上にわたり乾燥した黄河流域ではぐくまれた地方文化であった古代中国が春秋戦国時代、秦の始皇帝の全国統一を経て大きく拡大し南部の温暖湿潤な土地に接してその豊かな文物に触れるようになった、そして陰陽五行が完成し、色々な方面に利用されるようになった当に中国史の大転換期に書かれたのが、『黄帝内経』であり『難経』なのです。

 春秋戦国時代までの中国史の舞台は黄河流域の乾燥した地帯で梅雨はありません。秦の統一、漢楚の戦い、漢帝国の出現によって初めて中原の漢人達にとって長江以南の梅雨のある高温多湿な土地の情報がもたらされるようになった、と考えて良いようです。

 梅雨がなければ季節は4つしかないので、四時の脈状が説かれている十五難は乾燥した中原地帯こそが天下の全てであった、比較的古い或いは華北地帯で書かれた文章と言うことができるのではないか。

季夏を含む五季で季節を語る五十六・七十四難は比較的後期の或いは河南地方で書かれた文章ではないか、と言うことも出来るかと思っています。

(図表資料の⑤は気候としての南北の境は実は長江ではなく、淮河であることを示す資料です。淮河とは黄河と長江の中間ほどの位置を東西に走る河です。この淮河と四川省の奥深くまでやはり東西に走る「秦嶺山脈」が降雨量の境目であるとのことです。このライン、「秦嶺・淮河線」(しんれい・わいがせん)は中国東部における年間降水量1000mmのラインのことです。ちょうど年間降水量1000mmの等量線が秦嶺山脈と淮河を結ぶ線と一致することからこの名前で呼ばれ、一般的にこの線より以北が小麦地帯、以南が稲作地帯とされています。)

 

 

3,結語

・長夏について・・季夏は「長夏」とも書かれています。内経では「季夏」は少なくほとんど「長夏」が使われています。色体表などでは普通「五季」といえば長夏を使用していますが本会では『難経』の研究が盛んですので、「季夏」を中心に話をしました。「季夏」が戦国時代の書に書かれているのに対して「長夏」は素問以前に使用例がない、と荒川先生が言っていましたので「季夏」の方が古いようです。原典の中での「季夏」「長夏」にかんする記述の代表的なものをいくつか紹介しておきましたのでで、ご覧になって下さい。

 「長夏」の意味は唐代の「王冰」が「長夏は旧暦6月のこと」と解釈して以来歴代の解釈家はこの説を支持しています。しかし中国の方のサイトを覗くと意外なことに最近では「長夏」の意味に関して異説が出ています。  

  • 「長夏」は七十二日有るべきという説。そもそも「四時」が三ヶ月づつの四等分なのだから「五季」も五等分で有るべきという説。『管子』五行篇に「木用、火用、土用、金用、水用は冬至から各七十二日づつ、の記載有り」
  • 「長夏」は四季の最後十八日のこと、という説。

一応紹介しておきます。

 

・五季について:「五季」は原典では「五時」と書かれていますが、かなり古い時代から「五季」と言い慣らされています。「五季」の内容は「春・夏・長夏(季夏)・秋・冬」です。原典では繰り返し何度もでてくる分類です。

「土用」に関しては原典の中には「土用」という単語自体はありませんが、「土用」の存在を前提とした文書は散見できます。中でも以下の二つは「土用」と鍼灸治療の関係を示唆するものとして重要です。

『素問』玉機真蔵論(19)「脾脉は土なり、孤藏以て四傍に灌ぐものなり。帝曰く、しからば則ち脾の善悪これを見得るべけんや。岐伯曰く、善きものは見得るべからず、悪しきものは見るべし。」

ここでは脾土は中央であり四季に皆関係すると書かれています。

『素問』太陰陽明論(29)「脾は土なり、中央を治め、常に四時を以て四臓に長ず、おのおの十八日寄りて治す、独り時を主るを得ず。」

さらにこの篇では脾土は中央であり、特定の季節を主催しないが各季節の「18日」において治癒に関係する、と書かれています。

「土用」は古典医学の世界では「五季」の一つではないものの、各季の終わり18日間において旺気して季節の変わり目を主催しており、引き続き時邪の対象と考えた方が適切なようです。本会で「五季の治療」は「春・夏・長夏(季夏)・秋・冬」プラス「土用」と捉えるべき、と考えています。

 

最後に:「季夏」は梅雨のことなり。と決めつけて書き始めた講義でしたが、日本の資料では「季夏、長夏」イコール夏、という記述は多いのですが、中国の資料では必ずしも「梅雨」と解釈しているわけではありません。総じて「夏の終わりには湿が高まり、脾胃の運化作用が失調しやすいので、脾病の治療を行う」という説明になっています。やはり中国では「梅雨」はあくまで地方の局地的な気象現象であって、全国的に共有できる体験ではない、ということなのでしょう。

さらに言えば日本でも梅雨に限らず高温の時期に雨が続けば、湿邪の影響で脾の運化作用は障害を受けます。特に春先の雨や秋の長雨の時期は春、秋の土用と重なることも多く、脾病が多くなりがちです。「梅雨」と限る必要は無いのではないか。そういうわけで、当初は「梅雨を考える」としていたのですが「雨季を考える」に演題を変えました。

これまで季節の治療は二十四節気を中心とした日付割りの中で考えてきました。これは季節ごとの光の量の変化が人体の五臓に与えている影響を基準として五臓の旺気と時邪の問題を扱っていると理解しています。しかしこの「季夏」はその土地の実際の天候を基準にしているという点で他の基準と性格が異なります。先ほど見たように「梅雨」の時期は南から北まで徐々に移動していくからです。さらに先ほど指摘したように梅雨自体が、地上の地形に大きく影響された気象現象である、ということを考えあわせる必要が有ります。古典医学が季節の治療の基準は必ずしもカレンダー通りの五行、或いは六気の巡りのみを指示しているわけではない。その土地の風土や気候の条件にあわせて治療を変えていくべき、と示唆している点を見逃してはならないと思いました。「季夏」の治療はこのように非常に面白いポイントであると感じています。今年からは「雨季」も考慮に入れながら選経選穴を行い、是非研究部において「季節の中での漢方鍼治療」の積極的な発表を行って頂きますようお願い致します。

 

 

※中国のサイトで「難経が書かれたのは洛陽、あるいは長安」との記述を見つけて佐合さんに問うてみると、

佐合氏「聞いたことはない。漢の時代の中心地と言うことで名前が挙がっただけではないか。もっとも齊の医学が優れていたのは事実だろうと思います。

それゆえに齊の秦越人は,秦の医者に嫉妬されて殺された。

でも,本当に齊の医学が全国に広まったのは,淳于意〔『史記』扁鵲倉公列伝:前漢初期〕が誣告されて,冤がはれて,齊国内での成績が,喧伝されてからではないか。

誣告されてから,朝廷から医学に関する諮問をうけるまでに,わずかながら時間がかかっている。僥倖的に免罪になった後で,伝承していた医書を召し上げられても,否は言えなかったと思う。

結果として,劉氏〔劉歆・劉向 『黄帝内経』初出の書、現存最古の書籍目録である『七略』編者〕父子が整理したとき,宮中の医学資料中に扁鵲由来のものの比重が大きかった。」

 

※言語:華北平原は大平原であるため、古来人の行き来が盛んであるため。言語がほぼ統一されている。華北平原の都市から北京、天津と行った北部の大都会、洛陽、西安といった西部の都市、さらに東北部(旧満州)の都市や西域の異民族地域も中国建国後の北部からの移民が主力であるため、ほぼ北京語で会話が通じます。全中国の半分以上の土地で民族地帯を除けばほぼ同じ言語をしゃべっているようです。

華南では都市ごとに全く違う言語をしゃべっています。「あらさぱにん」「武漢の船下り」「福建省出身の符君の話」「南京に出張した先生の話」

 

 

2,迎随問題

 

難経における流注の問題を指摘し、いわゆる迎随の補瀉に関して皆で考えてみたいと思います。以前心虚証の研究の際、内経における流注の方向が必ずしも学校でならったような十二経絡循環の記述ではなく、多くが馬王堆文書の示す求心走行説(十二経脈全てが救心走行している)に基づいて書かれていることを指摘し、多くの会員が習慣としている循環説に基づく経の軽擦が手の陰経を主証とすることの発見を遅らせたのではないか、という発表をしました。

資料に霊枢根結篇、衛気篇の本標、本輸篇の五輸穴の記述を上げておきましたのでごらんになって下さい。では難経はどうだろうか、ということは今まで本会ではあまり話題になっていなかったと思います。今回改めて難経における流注の方向を調べてみたところ、こちらも意外と救心走行説に基づくと思われる記述がありました。

まず二十三難ですね。経脈の長さを測ってみたという記録だと思いますが、明確に「手の三陰の脈は手より胸中に至る」「足の三陽の脈は足から頭に至る」と書かれています。手の三陰、足の三陽と要約して書かれているので、理解しやすいですね。

また四十七難には諸陰之脈は皆首や胸に戻る、諸陽の脈は皆上りて頭や耳に至ると書かれています。さらに要約されている明確な求心走行説の文章です。

六十三難では十二経の五輸穴が全て指先の井穴から始まると書かれています。

六十五難も経脈は井穴から合穴にかけて流れると書かれています。

翻って十二経脈循環説側の文章はというと同じ二十三難の後段で太陰肺経から厥陰肝経に至るという文章が載っていました。たぶんこの一文だけです。

 

この問題について持っている難経の解釈書を当たったところ、西岡由記先生の「 図説『難経』 易経と難経」の二十三難の解釈の中で触れられていました。曰く「解説23-2 経脈流注は頭胸が終点 経脈流注に関しては「陰は上り、陽は下る」という定説がある。これは『霊枢』逆順肥痩の「手之三陰従蔵走手手之三陽従手走頭 足之三陽従頭走足 足之三陰従足走腹」が出典であり、これがいわゆる「迎随補瀉」の根拠にもなっている。その定説から72難の補瀉もこの説で解釈されることがあるが、これはとんでもないことで、『難経』の主張は『霊枢』とはっきり一線を画している。

『難経』の張する経脈の流れは、「未梢から中枢」の求心性であり馬王堆の流注に近い。未梢は四肢の五穴であり、中枢に関しては陰陽経で異なり、陽経は頭、陰経は胸である。「陽=頭」「陰=胸」の一貫した陰陽原理はこの後もくりかえされるテーマである。」「この様に、二十三難で言われている経脉の長さは手から胸部顔面部に至る長短の尺度をいうに過ぎない。その流注走向を述べたものでは無いのだと書かれていました。」

 

滑伯仁も二十三難で延々と「経絡は12本でこれこれこのように循環しているんだ、俺の話が正しいのだ」と注釈を付けています。どうしてだと思いますか?

二十三難冒頭の文章は中国人が読んでも普通は長さのことを言っているように読めないからですよね?

もしも「手の三陰の長さは手から胸中に至ること三尺五寸」と書いてあれば、誰がこんな長々とした注釈を書くでしょうか?この文章は普通に読めば「手の三陰は手から胸中に至る。その長さは三尺五寸」と読めるように書いてあるのです。だから歴代の解釈家は皆二十三難のところで立ち止まり「ここにはこのように書いてあるけれども・・・」ということで一生懸命循環説を繰り返し書く羽目になっています。

 

20世紀半ばの馬王堆ばく書の発見により我々は内経成立以前に十一経絡求心走行説があったことを知っていますが、彼らは知らないので読み解けなかったとのだみます。

もっと言えば四十七難です。「四十七の難に曰く、人の面、独り寒に耐うるは何ぞや。然るなり、人の頭は諸陽の会なり。諸陰の脉は、皆頸胸中に至りて還える。独り諸陽の脉は、皆上りて頭に至る。故に面をして寒に耐えしむるなり。」 

「諸陰の脉は、皆頸胸中に至りて還える。諸陽の脉は、皆上りて頭に至る。」ですよ。こちらの方が二十三難より議論の余地がないですかね。そして七十難以下の五輸穴論です。すべて井穴に始まる、ですね。

 でもいずれにしても経絡流注の方向は定めがたい。逆撫でになっては正しい選経は難しい。逆方向に鍼を向けて補ってもうまくいかないだろう。だから横の流れではなく縦の流れで迎随をやろうか、と言うあたりが当面の落としどころではないでしょうか?如何ですか?

  

難経本義諺解の二十三難では岡本一包は難経本義の滑伯仁の注釈に対していちいち「本文では逆の方向と書いてる」といちいち反論しています。」

そして滑伯仁が十二経絡循環に基づく経脈流注を縷々述べた文章に対して「経脈の終始は常にこの如くなるに、本文には皆手足より言い始めて異なるものは何ゆえぞや」と書ききっています。

 

 

又七十二難でも再度難経における迎随の意味に触れておられます。関連の文章を読んでみます。

解説72-2 迎随補寫と、経脈流注の誤解

次に、末文では「迎随」とは「栄衛之流行」と「経脈之往来」を知ることだとある。

一般的に迎随補寫は、いわゆる「陽経は下り、陰経は上る」経脈流注の方向を基準にした補寫法といわれているが、これは疑問である。私は経絡人問であることを先に述べたが、特別敏感な者でなくとも経脈中の気の流れはさまざまに感じている。気の流れは状況に応じて変化する。おそらく経絡系統ともいうべきものが制御するのであろう。

また、この迎随の方法が『難経』にあるという誤解にも驚いてしまう。経脈流注に関しては、二十三難にあるように、陰陽経の終始が四肢と頭胸部にあることを論じているだけであり、また経脈の始まりは井穴と一貫して論じているのだから、「陽経は下り、陰経は上る」理論と『難経』とは全く関係がないと思っている。

では『難経』のいう「迎随」とは何なのだろう。

それは「随其逆順而取之」とあるように「逆順」がわからなければ、それに「随(したがう)」ことさえもできないことになる。そして『難経』のいう「逆順」とは、陰から陽、陽から陰へと循環する「自然のめぐり」を基準にした「逆順」である。『難経』はこのことを一貫して論じてきている。

例えば季節の標準脈については四難以降繰りかえし論じられてきた。患者の脈がその季節に相応じていれば順だし、反していれば逆である。季節の脈は弦鈎毛石であらわされるが、細かく分析すれば陰陽気の割合で示される。それを示したのが十二消長卦である。この基本の形を知って末来の姿に陰陽を調和させる、それが調気の方であろう

 

そして七十八難の文章「補寫の法呼吸出内の鍼を必とするにあらずなり」は細かい補瀉方にこだわる必要は無いの意。それ以下の文章は押手で気を得る感覚が重要。そう言う解釈でよいのではないか、と感じています。

 

迎随に関してはただいま見てきたように多くの矛盾があります。とりわけ本会が重視してきた難経が内経以上に求心走行説に片寄っている事や五輸穴理論が求心走行説の一つとして捉えうることを思えば、今までのように刺針の手技のみ無条件に経絡循環説に従うことには疑問があります。本会の補寫法を再構築していく時に当たり、文章の字面のみに囚われることなく、真に実践的、効果的な鍼灸術の一環としての補寫法と言う観点で諸先生方に再検討して頂きたいと考えています。 

 

  

難経本義諺解

二十三難:経に曰く 手の六陰は 手より 胸中に 至るまで 三尺五寸 三 六 一丈八尺 五 六 三尺 合して 二丈一尺なり。  

評林に曰く 手の三陰の脈 太陰は 胸中の 中府より 手の大指 少商に至る。  少陰は 胸中の極泉より 手の 小指の 少冲に 至る。  厥陰は 胸中の 天池より 手の中指の 中冲に至る。  故に 手より 数えて 胸に至って 各々 長き事 三尺五寸。  左右の手に 各々 三陰あり。  所以に 霊枢脈度篇に 手の六陰の脈と言う。  計するに 長さ 三尺五寸 三 六を 数えて 共に 一丈八尺 五 六は 共に 三尺 共に 二丈一尺 なり。  類註に曰く 按ずるに 手足の 十二経脈 手の三陰は 臓より 手に走り 手の三陽は 手より 頭に走る。  足の三陽は 頭より 足に走り 足の三陰は 足より 腹に走る。  これ その起止の度は 今 言う 手の六陰は 手より 胸中に至ると。  けだし ただ その 丈尺の数は 計るに 共に 四末を以て 始めとなして 言う。  その行度 この如しと 言うに非ず。  後は これに倣え。  これ言うは 手より 胸中に至るとは 経脈流注の 次序を言うに 非ず 経脈の 長短を 言うのみ。  下の 足の三陽は これに倣え。  尚 霊枢の文を 引いて以て これを 証すなり。  霊枢逆順肥痩篇に曰く 黄帝の 曰く 脉 行く事の 逆順は 如何。  岐伯が曰く 手の三陰は 臓より 手に走り 手の三陽は 手より 頭に走り 足の三陽は 頭より 足に走り 足の三陰は 足より 腹に走る。  

基調講義「雨季を考える」

  201804

 

 

 

 

 

 

 

19.「2018年年頭所感」  会長 隅田真徳

 

平成30年新年あけましておめでとうございます。

漢方鍼医会会員の皆様に於かれましては、健やかな新年をお迎えの事と存じます。

昨年も一年間の例会開催と進行、そして第22回夏期学術研修会名古屋大会開催の為皆様の多大なるお骨折りとご協力を頂き感謝申し上げます。

本年も変わらぬご厚情のほどよろしくお願い申し上げます。

昨年は名古屋大会で提出された「陰陽調和の鍼」を「陰陽調和の手法」として本部でも研修の対象とすることになりました。難経に何度も書かれているという素性の良さに加え、鍼灸大成でも明らかに書かれている中世の医者達の高い評価、後世まで与えた影響の大きさも決め手になっています。

今後は本会でも新しい学術提案の際には後世の評価、という視点も持つべきではないかと考えています。それが見あたらなくてはダメ、ということではありませんが有れば皆も納得しやすいと思います。鍼灸学術探訪の努力は本会だけのものではなく、内経執筆以来既に2000年の歴史があることを思えば自然な発想ではないでしょうか。

 ネットで検索して得られる情報もあるでしょうが、まずは『鍼灸大成』『鍼灸聚英』でしょう。浅野周先生のサイトで日本語版のファイルを入手する事もできます。東洋学術出版の『中国鍼灸各家学説』等中医学系の歴史書も読みやすく充実したものがあります。本会学術のさらなる進化を期待しています。

201801

 

 

 

18.医道の日本「新年の言葉」 漢方鍼医会会長 隅田真徳

 ロシアの博物館に保存されていた敦煌文書の中に五世紀のものと類推される文書群がある。その中から中国の研究者が『難経』の五十三難、三十八難、三十九難、二十五難、六十八難に当たると思われる文章を発見したという。資料を子細に読んでみると、命門や三焦の生理、心包と三焦の表裏の関係等が後世書き足されたようにも見える。(勿論1つの資料だけで軽々しい判断をできるはずも無いが。)仲間の先生方にそういう話をすると「もしそうなら何だかがっかりしますね」等と言う反応もある。それも自然な感情かもしれないが、私はむしろ「古典の中の玉石を見極めよ」という故島田隆司先生の教えを今更ながらに思い出して、気が引き締まる思いがしている。古典鍼灸探求の道は決して一筋縄ではいかないはずである。古名医の金言の一言を見極めていきたい。

201801

 

 

17.平成29年後期 学術部資料  主題:従来の「衛気営気の手法」に加えて「陰陽調和の手法」も本治法の手法として研究課題とする。

 

概要:名古屋夏期研の大きな成果として、難経に書かれている補寫法は「衛気営気の手法」のみではなく「陰陽調和の手法」も記載されていることが明らかになった。

難経に2つ目の補寫法が書かれていることは意味深いことで、研究の必要ありと考える。

従来の「衛気営気の手法」は経脈の流注という横の流れを意識したもので、本会にとって多年用いられてきた実績がある。一方で後世に使用例を探し出すことができない上、迎随の矛盾を抱える可能性がある。

「陰陽調和の手法」は陰陽の気の経穴における交流という縦の流れを意識したもので、手法はよりシンプルである。またその補寫のコンセプトは後世の鍼灸界に多大な影響を与えた実績があり、迎随の矛盾からは自由である。

実際の手法は現行の営気の手法とさほど変わらないが術者の意識が横のラインから縦のラインに変わることで、補寫の操作は直感的に理解しやすいものとなり、同時に季節の陰陽にも対応できるものとなる。且つ浮沈の操作がより容易になる可能性もある。

 学術部としては研究部の実技において両者を積極的に比較検討するよう促し、議論を喚起していきたい。

 

 モデル患者を虚と診断したら補の手技、実と診断したら瀉の手技を施す。又陰陽調和の手法は季節の陰陽調節の手法としても紹介されている。虚実の判断が難しい時は季節の陰陽に随った手技を施すこととする。下記の記述に基づき「陽気を押し入れ、陰気を引き上げ」るイメージを大切にしつつ刺鍼する。

 

※名古屋夏期研においては陰陽調和の鍼と六難の「陰盛陽虚」「陽盛陰虚」をワンセットのものとして扱った観がある。これではせっかくの「陰陽調和の手法」も使用範囲が限られた特殊な鍼方というイメージになる。本部の学術部ではあくまで本治法に使用する補寫法として研究を進める方針とする。

 

201711

 

 

 

○陰陽調和の手法

1、補法

・目的

陽の気を必要な部に導くことにより、陰陽の気を調和させる。

・手法

陽の部にて気を集め、その陽気を必要な部位(虚)に推し入れる手法が補法になる。

目的とする経穴を取穴し、皮毛の部に押し手を構える。押し手に気が至るのをみて鍼を刺し、その陽気(衛気)を必要な陰の部位(経脈内)に推し入れるように刺鍼する。推し入れる際には、刺し手(鍼)、押し手ともに推し入れる意識をもつことが重要。必要な部位に陽気を推し入れたら鍼を留め、そこで気が至ったら抜鍼する。縦の迎随に従うため、鍼は直刺で行う。

 

2,瀉法

・目的

陰の気を必要な部に導くことにより、陰陽の気を調和させる。

・手法

陰の部にて気を集め、陰気を引き伸ばすように必要な部位に持ち上げる手法が瀉法になる。

目的とする経穴を取穴し、血脈の部に押し手を構える。押し手に気が至るのをみて鍼を刺し、その陰気(営気)を必要な陽の部位(経脈外)に引き伸ばすように持ち上げる。

持ち上げる際には、刺し手(鍼)、押し手ともに持ち上げる意識をもつことが重要。必要な部位に陰気を持ち上げたら鍼を留め、そこで気が至ったら抜鍼する。縦の迎随に従うため、鍼は直刺で行う。

 

 

 

※資料

・虚実に対する補瀉法として

七十八難「針を為すことを知る者は、其の左手を信(モチ)い・・気を得て推して、之を内(い)る。是れを補と謂う動じてこれを伸ばす、これを瀉と謂う。・・」

押し入れることが補、引き上げることが瀉と理解できる。

 

・季節の陰陽に対する調整法として

七十難「春夏は刺すこと浅く、秋冬は刺すこと深きものは何の謂ぞや。

然るなり、春夏は陽気上に在り、人気も亦上に在り。故に当に浅く之を取るべし。

秋冬は陽気下に在り、人気も亦下に在り。故に当に深く之を取るべし。

春夏は各々一陰を致し、秋冬は各々一陽を致す者は何の謂ぞや。然るなり、春夏は温なり、必ず一陰を致すとは、初めて針を下すに、之を沈めて腎肝の部に至り、気を得て引いて之を持するは陰なり。秋冬は寒なり、必ず一陽を致すとは、初めて針を内れるに浅くして、之を浮かべ心肺の部に至り、気を得て推して之を内れるは陽なり。是れ謂る春夏は必ず一陰を致し、秋冬は一陽を致すと謂うなり。」

 

 七十難の後半の解釈は難解で歴代の学者も混乱している観がある。まずは作者の解釈は脇に置き、古医経の文章そのものを検討してみる。

『春夏刺淺 秋冬刺深者 春夏各致一陰 秋冬各致一陽者』

この一文を平易な中国語として訳せば「春夏は浅く刺し、少しだけ陰に至る(押し入れる)。秋冬は深く刺し、少しだけ陽に至る(引き上げる)」と読むことは充分に可能だと思う。

「致」の文字は「至」と発音が同じである上(当て字の可能性あり)、「致す」だけではなく「めざすところまで届ける。最後まで行き着く」と言う意味があるからである。難経の他の条文とも容易に整合性がとれる訳とも言える。

 

しかしこれでは春夏に補い、秋冬に瀉法をすることになり、東洋医学の一般的な法則には適わない。薬方などでも夏には過剰な陽気の発散を促し、冬には不足しがちな陰気を温補すべしとの記述は多く見られるものである。

そこで古医経の文章を脇に置き、七十難の作者の文章に従って解釈することとする。つまり七十難の作者は古医経の文章を大胆に解釈し、刺法を変更したものであると理解する。

「春夏にはまず深く差し入れた後陰気を引き上げて、陽気が過剰(孤陽)とならないように調和を図り、秋冬には浅く刺したあと陽気を押し入れることで、陰気が過剰(孤陰)とならないように調和を図る。」まずはそのように解釈して実技の基準とする。

 

とはいえ「春夏に腎肝の部へ刺し入れよ、秋冬は心肺の部へ浮かせよ」はあくまで比喩的な意味と考える。以下の難経本義諺解の岡本一抱説に習い、春夏は浅い部位での刺し下ろす操作、秋冬は深い部位での引き上げる操作と理解して実技を行う事とする。

 難経本義諺解:岡本一抱「春夏は浅く刺し秋冬は深く刺すとの刺鍼法は、春夏は一陰を致し鍼を腎肝の部に沈め、秋冬は一陽を致し鍼を心肺の部に浮かせるとの刺鍼法と異なっているように思われるがどういう事だろうか。異なるように見えて実は同じものなのだ。

春夏は腎肝の部まで鍼を沈めると言ってもこれは浅中の深であり、秋冬は心肺の部に浮かせると言ってもこれは沈中の浮である。必ずしも心肺は皮膚の部、腎肝は筋骨の部という風に理解する必要は無い。」

 

 

 

・迎随の方向に関して

七十二難「経に言う、能く迎随の気を知って之を調えしむべし、気を調うるの方は必ず陰陽に在りとは何の謂ぞや。然るなり、所謂(イワユル)迎随とは栄衛の流行、経脉の往来を知って、其の逆順に随って之を取る、故に迎髄と曰う。

気を調うるの方は必ず陰陽に在りとは、其の内外表裏の陰陽を知って、之に随って、之を調う。故に曰う、気を調うるの方は必ず陰陽に在りと。」

 

 従来迎随とは十二経絡循環理論に基づく経脈の横方向の流れに随うことと解釈されてきた。しかし難経の条文を子細に検討した結果難経においてはむしろ求心走行説に基づく条文の方が優勢であることが明らかになった。経脈の流注の方向は諸説があり定めがたい。

 しかし今改めてこの迎随の重要性を説いた七十二難を読んでみると、「営衛の流行、経脈の往来」の逆順に従うよう指示している。経穴における営気衛気の出入りの縦の流れに随って操作することを陰陽調和の鍼の迎随、と考えても無理はないように思う。

 

 

16.平成29年後期 学術部資料―陰陽調和の手法の提案― 

 

主題:従来の「衛気営気の手法」に加えて「陰陽調和の手法」も本治法の手法として研究課題とする。

 

概要:名古屋夏期研の大きな成果として、難経に書かれている補寫法は「衛気営気の手法」のみではなく「陰陽調和の手法」も記載されていることが明らかになった。

難経に2つ目の補寫法が書かれていることは意味深いことで、研究の必要ありと考える。

 

従来の「衛気営気の手法」は経脈の流注という横の流れを意識したもので、本会にとって多年用いられてきた実績がある。一方で後世に使用例を探し出すことができない上、迎随の矛盾を抱える可能性がある。

 

「陰陽調和の手法」は陰陽の気の経穴における交流という縦の流れを意識したもので、手法はよりシンプルである。またその補寫のコンセプトは後世の鍼灸界に多大な影響を与えた実績があり、迎随の矛盾からは自由である。

実際の手法は現行の営気の手法とさほど変わらないが術者の意識が横のラインから縦のラインに変わることで、補寫の操作は直感的に理解しやすいものとなり、同時に季節の陰陽にも対応できるものとなる。且つ浮沈の操作がより容易になる可能性もある。

 学術部としては研究部の実技において両者を積極的に比較検討するよう促し、議論を喚起していきたい。

 

 モデル患者を虚と診断したら補の手技、実と診断したら瀉の手技を施す。又陰陽調和の手法は季節の陰陽調節の手法としても紹介されている。虚実の判断が難しい時は季節の陰陽に随った手技を施すこととする。下記の記述に基づき「陽気を押し入れ、陰気を引き上げ」るイメージを大切にしつつ刺鍼する。

 

※名古屋夏期研においては陰陽調和の鍼と六難の「陰盛陽虚」「陽盛陰虚」をワンセットのものとして扱った観がある。これではせっかくの「陰陽調和の手法」も使用範囲が限られた特殊な鍼方というイメージになる。本部の学術部ではあくまで本治法に使用する補寫法として研究を進める方針とする。

 

○陰陽調和の手法

1、補法

・目的

陽の気を必要な部に導くことにより、陰陽の気を調和させる。

・手法

陽の部にて気を集め、その陽気を必要な部位(虚)に推し入れる手法が補法になる。

目的とする経穴を取穴し、皮毛の部に押し手を構える。押し手に気が至るのをみて鍼を刺し、その陽気(衛気)を必要な陰の部位(経脈内)に推し入れるように刺鍼する。推し入れる際には、刺し手(鍼)、押し手ともに推し入れる意識をもつことが重要。必要な部位に陽気を推し入れたら鍼を留め、そこで気が至ったら抜鍼する。縦の迎随に従うため、鍼は直刺で行う。

 

2,瀉法

・目的

陰の気を必要な部に導くことにより、陰陽の気を調和させる。

・手法

陰の部にて気を集め、陰気を引き伸ばすように必要な部位に持ち上げる手法が瀉法になる。

目的とする経穴を取穴し、血脈の部に押し手を構える。押し手に気が至るのをみて鍼を刺し、その陰気(営気)を必要な陽の部位(経脈外)に引き伸ばすように持ち上げる。

持ち上げる際には、刺し手(鍼)、押し手ともに持ち上げる意識をもつことが重要。必要な部位に陰気を持ち上げたら鍼を留め、そこで気が至ったら抜鍼する。縦の迎随に従うため、鍼は直刺で行う。

 

※資料

・虚実に対する補瀉法として

七十八難「針を為すことを知る者は、其の左手を信(モチ)い・・気を得て推して、之を内(い)る。是れを補と謂う動じてこれを伸ばす、これを瀉と謂う。・・」

押し入れることが補、引き上げることが瀉と理解できる。

 

・季節の陰陽に対する調整法として

七十難「春夏は刺すこと浅く、秋冬は刺すこと深きものは何の謂ぞや。

然るなり、春夏は陽気上に在り、人気も亦上に在り。故に当に浅く之を取るべし。

秋冬は陽気下に在り、人気も亦下に在り。故に当に深く之を取るべし。

春夏は各々一陰を致し、秋冬は各々一陽を致す者は何の謂ぞや。然るなり、春夏は温なり、必ず一陰を致すとは、初めて針を下すに、之を沈めて腎肝の部に至り、気を得て引いて之を持するは陰なり。秋冬は寒なり、必ず一陽を致すとは、初めて針を内れるに浅くして、之を浮かべ心肺の部に至り、気を得て推して之を内れるは陽なり。是れ謂る春夏は必ず一陰を致し、秋冬は一陽を致すと謂うなり。」

 

 七十難の後半の解釈は難解で歴代の学者も混乱している観がある。まずは作者の解釈は脇に置き、古医経の文章そのものを検討してみる。

『春夏刺淺 秋冬刺深者 春夏各致一陰 秋冬各致一陽者』

この一文を平易な中国語として訳せば「春夏は浅く刺し、少しだけ陰に至る(押し入れる)。秋冬は深く刺し、少しだけ陽に至る(引き上げる)」と読むことは充分に可能だと思う。

「致」の文字は「至」と発音が同じである上(当て字の可能性あり)、「致す」だけではなく「めざすところまで届ける。最後まで行き着く」と言う意味があるからである。難経の他の条文とも容易に整合性がとれる訳とも言える。

 

しかしこれでは春夏に補い、秋冬に瀉法をすることになり、東洋医学の一般的な法則には適わない。薬方などでも夏には過剰な陽気の発散を促し、冬には不足しがちな陰気を温補すべしとの記述は多く見られるものである。

そこで古医経の文章を脇に置き、七十難の作者の文章に従って解釈することとする。つまり七十難の作者は古医経の文章を大胆に解釈し、刺法を変更したものであると理解する。

「春夏にはまず深く差し入れた後陰気を引き上げて、陽気が過剰(孤陽)とならないように調和を図り、秋冬には浅く刺したあと陽気を押し入れることで、陰気が過剰(孤陰)とならないように調和を図る。」まずはそのように解釈して実技の基準とする。

 

とはいえ「春夏に腎肝の部へ刺し入れよ、秋冬は心肺の部へ浮かせよ」はあくまで比喩的な意味と考える。以下の難経本義諺解の岡本一抱説に習い、春夏は浅い部位での刺し下ろす操作、秋冬は深い部位での引き上げる操作と理解して実技を行う事とする。

 難経本義諺解:岡本一抱「春夏は浅く刺し秋冬は深く刺すとの刺鍼法は、春夏は一陰を致し鍼を腎肝の部に沈め、秋冬は一陽を致し鍼を心肺の部に浮かせるとの刺鍼法と異なっているように思われるがどういう事だろうか。異なるように見えて実は同じものなのだ。

春夏は腎肝の部まで鍼を沈めると言ってもこれは浅中の深であり、秋冬は心肺の部に浮かせると言ってもこれは沈中の浮である。必ずしも心肺は皮膚の部、腎肝は筋骨の部という風に理解する必要は無い。」

 

 ・迎随の方向に関して

七十二難「経に言う、能く迎随の気を知って之を調えしむべし、気を調うるの方は必ず陰陽に在りとは何の謂ぞや。然るなり、所謂(イワユル)迎随とは栄衛の流行、経脉の往来を知って、其の逆順に随って之を取る、故に迎髄と曰う。

気を調うるの方は必ず陰陽に在りとは、其の内外表裏の陰陽を知って、之に随って、之を調う。故に曰う、気を調うるの方は必ず陰陽に在りと。」

 

 従来迎随とは十二経絡循環理論に基づく経脈の横方向の流れに随うことと解釈されてきた。しかし難経の条文を子細に検討した結果難経においてはむしろ求心走行説に基づく条文の方が優勢であることが明らかになった。経脈の流注の方向は諸説があり定めがたい。

 しかし今改めてこの迎随の重要性を説いた七十二難を読んでみると、「営衛の流行、経脈の往来」の逆順に従うよう指示している。経穴における営気衛気の出入りの縦の流れに随って操作することを陰陽調和の鍼の迎随、と考えても無理はないように思う。

 

201710

 

 

 

 

 

 

15.伝統鍼灸学会 報告10月15日(日)11:00~12:00「交流ホール」      

特別実技講演 中国伝統鍼灸実技  演者:王軍(北京中医薬大学東直門付属病院 鍼灸科 主任)    隅田真徳

 

 プログラムによると本来は天津中医薬大学の郭義教授が行うはずであったが、急な公務変更のため来日出来ないことになったとのこと。王軍氏は急な代打というわけだが、外見は30代にしか見えず、本来50代が務めるであろう北京の大病院の鍼灸科主任にしては若すぎるように思った。多くの学会で役職を勤めている経歴や話し方から見て、本職は臨床医ではなく大学の中の一研究者ではないかと推察した。来日は初めてとのことで、「鍼灸を学ぶ者は誰であれ国境を越えて皆友人である!」と上機嫌で挨拶して発表に入った。内容は主に中国鍼の一般的な説明であり、教科書記述の範囲を全く出ない。日本の鍼との比較もあり、今では中国でも管鍼を使って痛みを緩和することを心掛けている先生も多いとのこと。実技発表は、モデル患者の右足三里に刺針をして得気を得た上で、左の胃経の実的所見の緩和を確認、背部の右肝兪穴に刺針したあと、左肝兪穴付近の圧痛の消失を確認、といった内容であった。中国の医者は以前はこうした刺針後の体表変化には全く無関心であったが、日本の学会で行われている各流派の実技発表を見て、こうした施術後の身体の虚実の変化を見せるという発表の流れをマスターしたのだろうと思った。

 それにしても今回の発表で一番印象に残ったのは実は発表者ではなく、傍らでこの発表を同時通訳した若い通訳者であった。非常に丁寧に質の高い通訳を行っていた。1時間の間に言いよどんだり、聞き返したりする場面もほとんど無かったので、すっかり感心した。ホールを出るときにたまたま隣を歩いていたので声を掛けて立ち話をしたところ、彼は中国に11年間留学していて今年開業したばかりとのことであった。通訳の労をねぎらって名刺を交換して分かれたのだが、後で改めてその名刺を見てまた驚いた。あの若者がISO国際標準化委員会委員をつとめているのだ。彼は既に国際的な会議の場で我々日本の伝統鍼灸を代表している人物だったわけだ。考えてみれば昭和の大先生達もその2代目も過ぎ去った。今や学者や医者が基調講義を受け持ち、中国帰りの若い先生が日本伝統鍼灸を代表している現実の中で、我々はこうした学会という場所でどういう立ち位置を探るべきかと少々心細くなる思いがした。

201710

 

 

 

14.漢方鍼医投稿  「敦煌文書再考察」  会長 隅田真徳

 

 平成29年春の会長講義でロシアにおける敦煌文書調査の結果5世紀前後と推察される年代の難経の一部が発見された話をした。私の不手際で資料を配付できず、多くの先生方が今ひとつ内容を了解できなかったと苦情を頂いた。もう一度説明したい。

 文章の概要は1枚の紙片であり 、全部で18行の文章が書かれている。前半の8行と後半3行は虫食い状態であり、各行いくつかの文字が判読できるのみである。中間の7行は各行10文字ほどが見える。とはいえ紙片全体が文章の上半分であり、下半分がちぎれて無い状態であり、この下にいく文字が続いているかは不明。しかし他の敦煌文書を見てみると1行に17から21文字が書かれているケースがほとんどである事や、現難経との文章との対比から推察して10~11文字ほどが続く様に思える。

 

 最近真柳誠先生の『黄帝医籍研究』(汲古書院発行)の中にこの文書に関する解説が載っているのを知ったので以下に紹介したい。

「最近、沈(敦煌文書研究者)はその文章が『難経』に対応することを報告した.すなわち現行本の五十三難・三十八難・三十九難・二十五難.六十八難の順で記述され、これは楊玄操が従前本八十一難の順次をあらためて十三篇に改編する以前の章配列かもしれないこと。敦煌本→現行本の表現に問曰→○○難曰、次伝→七伝、元気→原気、別使→別の変化があり、多くは敦煌本が古態だろうと考証する。敦煌本が改変した可能性もないではないが、四~五世紀の鈔写年代からして初期『難経』の旧貌を相当に保持。 従来の知見になかった新発見につき、沈の釈文を以下に引用しておく。

※○は未詳(不明)文字、下線は研究者の推定文字、( )内は注記。

 

①○○○原得 (伝)/ (以上現難経との対応未詳)

②○○○○五臓病次/

③○次伝者、伝其所勝/

④病伝与肺、=(肺)伝与肝=(肝)伝/

⑤○○傷、故言次伝者/

⑥○脾伝与肺=(肺)伝与腎=(腎)/

⑦○○○竟而復始、如循環/(以上現五十三難に対応)

⑧問曰。臓有五、府独有/

⑨謂三=焦=(三焦、三焦)者、元気之別使/

⑩経属手少陽、為胞絡、以○/(以上、現三十八難に対応)

⑪問曰。経言五臓者、六腑(臓)也。六/

⑫五臓有六腑(臓)者、腎有二蔵、○/

⑬神所舎、気与腎通、故/(以上現三十九難に対応)

⑭府、三焦独処、有名而無蔵/(以上現二十五に対応)

⑮問曰。五蔵六府各有井栄(榮)/

⑯○所出為井、所留為栄(榮)、/

⑰○○○○○栄(榮)主身熱軆(体)/

⑱○○○○○○○○○此○/(以上現六十八難に対応)」

 

以上『黄帝医籍研究』にあるこの問題の核心の部分を参照した。

まず研究者の沈氏が挙げている点について、現難経との違いについて考えたい。最初に挙げているのは各難の文頭に挙げられている各章の番号が無いことである。「問て曰く」から始まっている。7世紀に唐代の楊玄操が各難の内容に沿って一から八十一まで番号を振って順番を整えた、と言い伝えられているのでその為なのだろう。

 「次伝」が「七伝」になった事については去年の講義で触れた。歴代の解釈者の中には言い当てた人もいるので、中国人にとっては一個飛ばしてその先へ行く伝わり方を「次伝」と書くことは自然な表現なのだろうと思う。

 「元気」が「原気」になったのは意味があるのだろうか。字義にこだわりがあった人物が書き換えたかも知れないが、「元」と「原」は発音が同じ(yuan2声)なので単に当て字として使われた文書がたまたま後世に伝わった可能性があると思う。

 「別使」が「別」になったのはどうだろう。「三焦は原気の別使」という表現は六十六難にもあるのでそういう定着した言い回しが古代にあったことを伺わせる。個人的には文学味のある良い表現であると思う。六十六難の方はそのままなので、この表現に異論があって書き換えたのではなく単に書き写した時に「使」が1字落ちてしまったのではないか。

 

 その他自分なりに気づいたことを書いてみる。②行目は「問いて曰く。経に言う五臓の病は次伝し~」で、これ以降の五十三難の問答文の最初の行に当たるかと思うが、「五臓病」の三文字が現難経の五十三難には見あたらない。無くても意味は通じるが、この難の後半では心病を例にとり、五臓の病の相生相剋の伝変が書かれているのでこの三文字は自然な表現と思う。わざわざ「五臓の病」を除いた理由は不明であるが三文字なので偶然や間違えではないと思う。

 その後もいくつかの相違があるが、今回改めて読んでみて一番注目したいのは三十九難である。この難ではいくつかの文節が書き足されてる形跡があるのだ。以下に現在の三十九難の全文を記す。下線付きは敦煌文書とおおよそ一致する文節。括弧入りは敦煌文書には書かれていない文節である。

 

「曰.經言府有五.藏有六者何也.

然.六府者正有五府也.然五藏亦有六藏者.謂腎有兩藏也.其左爲腎右爲命門.

命門者謂精神之所舍也.(男子以藏精.女子以繋胞.其)氣與腎通.故言藏有六也.

府有五者何也.(然.五藏各一府.三焦亦是一府.然不屬於五藏.故言府有五焉.)」

 

三十九難は左腎臓、右名門の下りが出てくる有名な難の一つである。「命門は精神の舍るところをいうなり、男子は以て精を蔵し、女子は以て胞に繋ぐ、其の気は腎と通ず」の「男子は以て精を蔵し、女子は以て胞に繋ぐ、其の」が敦煌文書に無い。敦煌文章では「命門は精神の舍るところをいうなり、気は腎と通ず」のみ書かれている。これだけでも十分に意味は通じる。しかしそれでは命門の働きが明らかではない、と気に入らなかった後世の人が書き足したのだろうか。さらに「其」の一文字もその際に足されたのではないか。「其の」が無くても意味は通じるが、二つも文節を足すのであれば、ここに「其の」が有った方が文節のつながりはスムーズなように思われる。

 そして最後に「然.五藏各一府.三焦亦是一府.然不屬於五藏.故言府有五焉.」の書き足しを考えてみる。敦煌文書では⑬行のちぎれた下半分に最大11文字あると考えれば「藏有六也府有五者何也.」がすべてそこに書かれていたと考えても良いが、次の行にその答えがないので最後の六文字「府の五有りとは何ぞや」の問自体が本来は無かった可能性もある。

 そもそも三十九難は蔵と府の数が五であったり六であったりでその意味がよくわからない。そしてその理由が「三焦は府であって五臓に属さないからである」と答えているのも意図が明確に伝わらない。歴代解釈家もこうした問題を無視するか、無理な理屈をこねてやり過ごしている感がある。しかし二十五難の一部と言われる⑭行目の文章を見るとその答えが透けて見えてくる。⑭行目を読むと現難経で「三焦は名あって形無し」とされている文章が本来は「三焦は名あって蔵無し」であったことが解るのだ。三焦が本来は蔵の一つと解釈されていたとすれば、それが蔵府の数が五であったり六であったりする事の本来の答えであったのではないか。そして三焦の生理や蔵府の別が最終的に確定した時期において「三焦は名あって形無し」と書き換えられ且つ「府の五有りとは何ぞや」「三焦は府であって五臓に属さず云々」の問答も書き足されたとの推測はできないだろうか。

 中国では中世以降三焦と命門とは一体なんぞや、という「三焦命門論」の論争が数百年に亘って続き議論百出した。そうした論争の影響が難経本文の書き換え、書き足しと言う形で残っていると考えれば、古来解釈家を悩ませてきた問題のいくつかは解決していくのではないか。現難経の底本は中世以降の版本に基づいているので全くあり得ないと言うわけにもいかない。(『黄帝医籍研究』によると現難経の版本には2つの系統がある。『難経集注』と『難経本義』である。『難経集注』は北宋諸家の注釈を集めた物だが中国では失われ、日本の慶安五年(一六五二年)版刻本が現存する最古のものとのこと。『難経本義』は元末の滑伯仁により一三六二年に書かれたが八十一難揃っている底本は台北の図書館にある成化一五年(一四七九年)の版本とのこと。)

 

 以上敦煌文章と現難経を比較してみた。もちろん敦煌文書が現難経の直接の祖先とは限らない。難経から気になるところを抜き書きしただけのメモ書きかもしれないので、後半の考察はあくまで素人の妄想と思って頂きたい。しかし敦煌は砂漠の真ん中の小さなオアシス都市でありながら、数百年にわたり貿易で富み栄え、数万点の貴重な古文書を後世に残した。そこから出た文書なのでそれなりの価値はあると期待して良いのではないか。沈氏が言う様に「初期『難経』の旧貌を相当に保持しているのはまちがいない。」と言うことが益々明らかになれば、妄想とばかりも言っていられなくなる。今後の学会の研究発表に大いに注目している。

201712

 

 

 

 

 

13.漢方鍼医巻頭言 「難経本義諺解」  会長 隅田真徳

 岡本一抱は江戸時代初期の医学者にして希有な古典研究家であった。母方は豊臣秀吉の侍医も勤めた医者の家系で自らも大和の小藩の侍医の家の養子となり、長じて京都の名医味岡三伯に弟子入りして学んだ。ちなみに次兄は人形浄瑠璃で有名な近松門左衛門。

 

 生涯で多くの著作を為したが多くは古典医学書の解説書という意味で「諺解書」となっている。当時の医学書は日本人が書いたものであっても漢文で書かれたものが一般的だったが、彼の諺解書は仮名交じりの平易な日本語で書かれている。当時一般庶民が医者に掛かるようになり始めた世相の中で、多くの医者を志す若者達のために書いたという。古来日本では漢文で立派な文章を発表することは教養人としての格を示す効用があったことを思うと、彼が名誉を追わず実用を重んじる人物であった事が偲ばれる。又ある時兄の近松門左衛門に「おまえは古典の解説書を多く書いているそうだが、そうすると世間の人が古典を読まなくなると思うがおまえはその事に気がついているのか?」と問われ、それきり諺解書を書くことを辞めたとも伝わっている。素直な人でもあったのだろう。

 

 昨年「難経本義諺解」を買い求め、読み進めているが予想以上に良書であると感じる。まず経脈流注の問題のきっかけになった二十三難の「手三陰之脉 從手至胸中 長三尺五寸」であるが、西岡由記先生も『図説難経』の中で「手の三陰の脈は 手より胸中に至り たけ三尺五寸」と読む典型的な求心走行説の文章と捉えている。しかし漢代以前の求心走行説の存在を知らない古来の解釈家達は、皆この難の迎随の問題を無視するか、難経本義の滑伯仁にならって些細な理由によるものと解釈している。岡本一抱も結論は同じだがその注は丁寧である。滑伯仁が「手の陰経は胸から手に至るのだ」と主張した文には「しかし難経本文には手の陰経は手から胸に至ると記載されている。」同様に「本文には足の陽経は足から頭に至ると記載されている」と事実を押さえた上で、滑伯仁の十二経脈循環説に対しても「経脈の終始は常にかくの如くなるに、本文には皆手足より言い始めて異なるものは何ゆえぞや」と経文中の流注の矛盾をきちんと指摘し、この問題の存在を明らかなものとしている。

 

また七十二難は季節の陰陽を調整する鍼法の話だが、難経に従えば「春夏に深く刺し、秋冬には浅く刺す」という事になる。学習資料を作る際、これでは困るなと思っていたところ岡本一抱は「春夏は腎肝の部まで鍼を沈めると言ってもこれは浅中の深であり、秋冬は心肺の部に浮かせると言ってもこれは沈中の浮である。必ずしも心肺は皮膚の部、腎肝は筋骨の部という風に理解する必要は無い。」と注釈してくれていた。彼は我々漢方鍼医会と似た感性を持って鍼灸治療を行っていたように思えて嬉しくなった。本会の先生方も是非「難経本義諺解」を読み進めるようお勧めしたい。(視覚障害者の先生方には同書の音声ファイルが国会図書館のサイトからダウンロードできることをお知らせする。)

201712

 

 

 

 

12.名古屋夏季研 会長講義 「補瀉法」  隅田真徳

  今回の夏期研では「補瀉」がテーマになっています。補瀉は虚実に対する手法として、古典鍼灸術の要です。内経、難経にも記されている「虚実を補瀉する」との条文は古典鍼灸の原則として重視されてきました。ご存じのように原典にはいくつかの補瀉法が書かれています。そして原典以降はさらに多数の手法が考案され提出されてきました。今回はそうした歴史の振り返りに私自身の体験も踏まえて補寫法について考察します。そうすることで、今回の名古屋漢方が提出した「陽気を押し下げることで陰陽を調和させることが補」「陰気を引き上げることで陰陽を調和させることが瀉」のコンセプトは単に難経にそう書かれていると言うだけではなく、長い鍼灸の歴史の流れの中で実際に支持を集めてきた確かな思想であることを伺い知ることができます。

 

 1.まず経絡治療の出発点となった昭和の名人達の手技を確認しておきます。昭和58年に東洋鍼灸専門学校に入学して柳谷素霊の後継者の先生方に鍼灸実技を習いました。各先生によって個性があり、全く同じというわけでは無かったように思いました。在学当時最も高く評価されていたのは、東方会会長の小野文恵先生(当時70代後半)の実技で、一番記憶に残っています。小野先生は鍼は刺さなくても効く、と言うことを発見しこれを「接触針法」と名付けて経絡治療学会(現在の伝統鍼灸学会)で発表し、また難経の記述に基づいたかどうかは定かではありませんが、鍼の角度を細かく規定していて寝かせた鍼、立たせた鍼と使い分けていた方ですので、この場でお話しするのにふさわしいかと思います。小野先生は実技に大変自信を持っていて普段から生徒に「調子の悪い人は必ず言ってきなさい」と仰っていて、授業の終わりは必ず治療を解説付きでやって見せてくれていました。

 

 昭和のオーソドックスな経絡治療という感じで治療法則は難経六十九難。配穴も母子選穴法で決まっていました。風邪であれば六部定位脈診の上肺虚証と見れば、両手の太淵・太白の補法、大腸経の絡穴から瀉法という具合でした。用鍼は銀の長柄鍼0番鍼、本治法の補法はすべて刺入のない接触鍼。補法は前柔捻、後柔捻は入念に、押手で鍼を支持した後に親指で弾く催気を入念におこなって、やっていました。瀉法は捻鍼や雀啄などで多少刺入していたと思います。当時学生も銀鍼を素早く捻って切皮するということを練習しておりました。小野先生は田中角栄の顔面マヒも治療したとか。著述もし、東方会も運営し、治療室も繁栄を極めて、の名人と評価。私も風邪で鼻水が出てというときに治療していただいて、その場で鼻水が止まりすっきりして驚きました。とはいえ小野先生の治療は見ていただけ。

 

  その後東洋はり医学会に入会。ここで初めて詳しく手に手を取って手技を教わりました。補法は角度は45度ぐらいである他、呼吸を重視するよう指導を受けました。抜鍼の際に患者に「さあ息を吸って!」と吸気を促して抜鍼する。押手の下面の重要性、というかぎゅっと強く引き締めるので抜鍼の際はフタをする親指がパチンと音がする。さらに抜鍼後のフォースルーも長く大きく。あるいはそうした動作に至るための意念(イマジネーション)の重要さ。勿論迎随、提按、開闔、徐疾・遅速の補瀉なども各自のこだわり具合で入れるという内容だったと思います。

 

 瀉法は経絡治療的な刺入して雀啄をするような本当の瀉法と、補的な手技の中で瀉法を行う補中の瀉法に分かれていました。補中の瀉法には実の程度に応じた枯・堅・塵の3種類の手技を教えておられ、私は(多くの会員も)瀉法は強すぎるとして臨床ではほとんど補中の瀉法を使っていました。当時は発熱患者や高血圧の患者に対しては治療前と治療後の数値を計測して患者に示し治療の効果を数値で確認してもらう、ということがはやっていました。私も高円寺での修行2年目の終わりあたりで勉強会の際に後輩の37度4分程度の発熱を習った補中の瀉法で6分ほど下げて見せたことがあり、その後すぐに患者さんを担当させてもらう様になった記憶があります。枯は枯れ草で気の変化、堅は枯れ枝で血の変化に対して用いる、塵は文字通り塵のような気の滞りに対して用いるとされていました。塵の手技は今本会で良く行われている軽く接触してすっと引いてくるだけの手技です。

 

 しかしこうした治療前後に熱や血圧を測ってアピールするやり方は徐々にすたれていきました。うまくいく場合もあれば、そうでない場合もある。そうでない時は何だか間が悪い。治療後うまくいったとしてもすぐに元に戻る場合もある。すぐに結果が出ることが必ずしも良いことではなく、すぐに結果が出ないことが失敗であるとも言えない。むしろ逆の場合もあるのではないか。そういった意見が聞かれるようになっていきました。 

 

 その後中国の上海中医学院へ進学しました。日本では「鍼灸の手技には2つある。補法と瀉法である。」と教わったわけですが、上海では「鍼灸の手技には3つある。補法と瀉法と平補平瀉である」と教わりました。平補平瀉は何であるかというと、その先生は「補の手技も瀉の手技も行わない。刺入して得気があれば抜鍼してお終いにすれば平補平瀉となる。こうして虚は補われ、実は瀉されるのである。古典には補寫をせよということが多く書かれているが、今ではほとんどの先生がこの平補平瀉で治療を行っている。」と言うのです。実際病院へ行って見ていてもその通りで補瀉の使い分けを見聞することはほとんどありませんでした。

 

 平補平瀉について調べてみると次のような資料があります。まず平補平瀉は中国宋代江西省の人、席弘という医者が最初に唱えたようです。『鍼灸聚英』によれば「先祖代々の鍼灸医」とのことです。病気の治療で名高い名医とされ、多くの弟子を育て、彼の家は宋代から明代にかけて衰えることなく繁栄し、中国史上比較的大規模な地域的鍼灸学派を形成したと紹介されています。

 

 席弘の考えは『鍼灸大成』の『席弘賦』にあるように「平補平瀉がある。それは陰陽平衡が崩れたものを平衡にする。陽気を下へ押し込めば補であり、陰気を上へ引き揚げれば瀉である。ただ表層と深層の気が、調えばよい。」という大変シンプルな物です。また席弘から10代後の子孫の弟子で陳会という先生が書いた文章を元にした『神応経』は「「邪の集まる部位は、そこの正気が必ず傷付いている」という。例えば目が赤いなどの疾患では、明らかに邪熱によるものなので瀉法だけする。そのほかの諸疾患では平補平瀉がよく、瀉法したあと補法する。つまり邪を追い出してから真気を補うが、それが先師の伝えなかった秘訣である。」

 

 2つ説明がありますが、いずれの考え方も難経に源流を持っていることを我々は理解出来るわけです。

現代中医の陸寿康氏という方は著作『刺鍼手法100種』の中で「現代の臨床で用いられている平補平瀉法は補寫の分類を行わず得気を主とする鍼法である。従って鍼灸大成が記述した内容が平補平瀉の基準である、」と指摘しています。『席弘賦』の「陽気を押し下げ、陰気を引き上げ」が現代の世界中で行われている中国流鍼灸術の源流である、というわけです。

 

 私の個人的な考え方ですが、古代の原典には虚実を補寫するという事が頻繁に書かれており、中国でも中世まではそうした補寫の記述を忠実に、或いはより良い効果を求めてそうした記述を誇大に解釈して行う傾向があったように思います。(時計回りに数百回回すと補、逆向きに数百回回すと寫、と言った具合) しかしそういった補瀉法に対する批判もあり、効果に対する疑問もあった。「そもそも赤く腫れている場所以外に古典に書かれているような瀉法を用いる必要などあるだろうか」という疑問もあったことでしょう。そこで古典を改めて検討してみた結果「陽気を押し下げ、陰気を引き上げ」が提出され、時代と共に理論を変えながらも多くの支持を集めるようになり、現代に至った。そういうことかな、と思っています。

 

  私は臨床の場で人体に起きていることは、結局経気の滞りだろうと思っています。本来は経穴において陰気と陽気が自由に通行し体表に出たり潜ったりして機能している。精気が虚したり邪が実したりしてそうした通行が滞って機能障害が起きて、陰気が表面に出たり、陽気が体内に潜ることができないでいる。我々は正に障害が起きている穴に鍼を当てることによって、経気を活性化することで滞りを解消し、正常な循環を回復させている。その際に単に鍼を当てるよりも滞っている陰気を引き上げる、陽気を中に押し下げる動作や意念(イマジネーション)があるとより効果が得やすい、とそういうことではないかな、と思っています。

 

  私は以前から平補平瀉のことは頭にあって、会の中で紹介すれば理論整理に役立つのでは無いかという思いがありましたが、その時を得ることはできませんでした。しかし今回名古屋漢方鍼医会から難経七十、七十六、七十八難に基づく「陽気を引き下げ、陰気を引き上げ、陰陽調和を計ることが難経に書かれている補瀉法の極意である」という提案を知り、非常に啓発されましたし、又我が意を得た思いがしたりしています。こうした補瀉法のコンセプトが単なる1つの解釈という以上に、鍼灸界においては中世以降広範な支持を集め、今や世界の鍼灸界の趨勢となっていることを是非強調しておきたいと思った次第です。つまりこの「陰陽調和の鍼」の実技のあり方に関しては、今後も進化していって良いが、この補寫のコンセプト自体は今後の補瀉法の指針として良いものだ、とそう考えています。

 

 2.難経には補寫に関して様々な記述が有るように見えます。既に七十一難七十六難に衛気と営気の使い分けと補寫への応用ということが書いてあり、本会でもここ10年ほど研究の対象となってきました。そうした記述と陰陽調和の鍼と整合性をどう取るのか、という問題が気になる方もいるかも知れませんが、難経のことを調べていくうちに難経という本も内経同様に色々な時代の文章を集めた本だといって良いのではないか、と思うようになりました。そのお話をしたいと思います。

 

 今回この講義を書くに当たって「易経と難経」の著者である西岡由記先生に知人を通じてコンタクトをとってメールのやりとりをして色々ご教授頂きました。私にとっても長年の疑問が氷解することも多かったので、その中で知った内容を少し皆でシェアしたいと思います。このお話でカギになるのは昭和52年の雑誌「経絡治療」に掲載されている中国古代文字(甲骨文字)の大家 島邦夫先生による「五行思想の展開と成立」という講義録です。当時島邦夫先生が書かれた「五行思想と礼記月令の研究」という本が注目を浴びた事をきっかけに当時の経絡学会の幹部である島田隆司先生を始めとする数名の先生が弘前大学まで行って講義を受けてきた時の講義録です。

 

 資料としてお配りしましたが、この講義では春秋戦国時代から秦、前漢、後漢に至るまでの五行思想の発展段階という事が非常に詳しく述べられております。この講義を聴いた結果「難経は当時流行の五行思想によってまとめられた書である」との評価が経絡治療学会幹部のなかでできあがると同時にその評価に基づく難経に対する批判が起き、それが平成8年の日本伝統鍼灸学会の島田先生による「難経の功罪」という講演につながっていく。島田先生の講演の骨子は難経の功罪を順に述べるという物であったのですが、最後に「生理病理診断治療など鍼灸に関わる全てを五行説で体系づけたということができる。その功罪を見れば功は病態把握の安全さ、治療の体系化など非常に大きなものが有る事は否定できないが、同時にそれまで体系化しきれない多様な病態の記述を体系化したことによってその多様性を失わせ、画一化し、しかも後代にまでその影響を残しているのだからこれを脱却することの難しさを思うとその罪は大きなものが有ると言えよう。」

 

 わかりやすく言えば難経は五行理論にこだわりすぎて理論上色々不都合を起こしているのではないか。五行にこだわりすぎて無用の混乱を引き起こすという主張ですね。西岡先生は当時その場でこの講義を聴いていて初めて日本の鍼灸界に難経に対する明確な批判が存在していることを知ったが、釈然としない思いであったそうです。その後色々なことを学び、平成19年に「易経と難経」を出版。その主旨は以前講演の折拝聴させて頂いたわけですが、「易経を理解してこそ難経を理解出来る。難経を一貫して貫いている主題は易経由来の一年間の季節の陰陽に照らした体の観察と治療論である。即ち陰陽論である。(五行論に忠実な御用学者を装って、五行論の底にある『易経』の陰陽論を展開した。…だから『難経』は表向き融通の利かない五行論オンリーに見えるが・・)とそういうことです。

 

 そして「易経と難経」を出版した平成20年に「難経に罪はない」という論文を発表なさって遅ればせながら(島田先生は既にお亡くなりなので)島田先生に反論できた、という顛末を聞かせて頂き、論文も読ませて頂きました。 私が一連のこの話の中でも大切なのは島先生の論文だろうと思います。島先生の論文の11ページを見ると五行の配列でも我々が承知している木火土金水以外にも3種類の配当があったことが書かれています。13ページの表など見ても「春が脾、木が脾、夏が肺、土が心、秋が肝」などと書かれていて、鍼灸学校の時に聞いた「古代は全てが五行で定義されて」というような絶対的な権威を持った思想、という感じとは違う学者達の生々しい迷い、が伝わってくる感じが自分はしました。

 

でも今回の夏季研の主題に鑑みて一番注目したのは同じ13ページの以下のくだりです。

「五行相生説がいつ頃から始まるかというと、古く見ても前漢の景帝(前195~前188年)のころが上限でしょう。それ以前は鄒衍の門人達は口を閉ざしていますからね。

この相生説を董仲舒が取り上げて主張したと言うことは大変な事です。この後前漢の末期に至るまで五行相生が主流になります。勿論このほかに礼記月令がそんな流れとは無関係に作られていきますが。陰陽五行は董仲舒のあとも陽雄、劉向(りゅうきょう)・劉歆(りゅうきん)の父子や班固などの学者によって色々取り上げられていきますが、後漢以降は五行相勝(相剋)説が主流となります。」

ここまで聞けば皆さんもぴんと来るものが有るのではないでしょうか。難経の各難をこうした五行論の流行という歴史観を持ってみた時に、例えば六十九難のように相生の母子関係だけの治療法則を述べた条文は比較的古い前漢のもの、五十三難七伝間臓論や五十四難臓病腑病論のように相生と相剋を並列して比較したり、五十難のように相生相剋ともに用いた病理論はそれより後の時代の物で、三十三難、六十四難の剛柔論を用いた治療や七十五難瀉火補水論などは比較的後期の後漢期の文章と言えるのではないか、と思いました。各難で述べられている五行論の具合を読むことで、書かれた時代を大体推論することができるように思います。 

そう考えれば補寫論1つに絞って見ても難経の中には各時代の幾人かの古代医の論文が反映されており、代表的なものが衛気営気論と陰陽調和論ではないか。我々はそれぞれを別のアプローチと捉えて研究課題とすれば、理論整理も容易になり今後進むべき道も自然と見えていくのではないか、とそのように考えています。難経は古来一人の人或いは1つの流派が著述、或いは撰述して書かれた、と言われているようですが、こういう考え方もできるのではないかと思う。いずれにしても難経の中の補瀉法にはいくつかのタイプが書かれており、我々はその中から自分たちのあった物を選び、自分流にリフォームして使えばよいのだ、ということを言いたいわけです。

 

 ちなみに西岡由記先生の難経における補寫論をお伺いしたところ、ご自身の経絡敏感人間としての経験から言って「施鍼による気の動きは上下自在であり、また経絡を越えた左右や頭をはじめとする遠方にいきなり飛んでしまうような三次元を越えた動きを示すことも珍しくありません。」補瀉に関しては「形式的な補冩は何の役にも立ちません。」「『難経』七十八から八十一難の記述を、五行論に惑わされず読むと、ただただ陰陽バランスの復帰を目指している『難経』の意図が見えてくると私は思っています。」

 

 では私はどう思っているかというと、まず「虚実を補寫する」は本来の陰陽の巡りにかなえること、という解釈には同感です。この陰陽を名古屋漢方が提案したように、陰気と陽気の巡り、と捉えることは手技の上で重要であり、西岡先生が仰るように季節の陰陽の巡りと捉えることは今本会で推し進めている「季節の中での漢方鍼治療」という観点から見ても患者の病態や選経選穴までを示唆する指針となります。

また確かに原典に散見するこまごまとした補寫法をすべて尊重するということは現実的ではないと思います。しかしすべてが無駄と思っているわけでもありません。過去様々な補瀉法を学び運用してきた経験から言っても押手の下面、鍼のひねり、意念(イマジネーション)などは私にとっては今でも特に重要な要素と感じています。

 

 

 3.時間があるようですのでもう一つ。

難経における流注の問題を指摘し、いわゆる迎随の補瀉に関して皆で考えてみたいと思います。以前心虚証の研究の際、内経における流注の方向が必ずしも学校でならったような十二経絡循環の記述ではなく、多くが馬王堆医書の示す求心走行説(十二経脈全てが求心走行している)に基づいて書かれていることを指摘し、多くの会員が習慣としている循環説に基づく経の軽擦が手の陰経を主証とすることの発見を遅らせたのではないか、という発表をしました。

資料に霊枢根結篇、衛気篇の本標、本輸篇の五輸穴の記述を上げておきましたのでごらんになって下さい。

では難経はどうだろうか、ということは今まで本会ではあまり話題になっていなかったと思います。今回改めて難経における流注の方向を調べてみたところ、こちらも意外と救心走行説に基づくと思われる記述がありました。

まず二十三難ですね。経脈の長さを測ってみたという記録だと思いますが、明確に「手の三陰の脈は手より胸中に至る」「足の三陽の脈は足から頭に至る」と書かれています。手の三陰、足の三陽と要約して書かれているので、理解しやすいですね。

また四十七難には諸陰の脈は皆首や胸に戻る、諸陽の脈は皆上りて頭や耳に至ると書かれています。さらに要約されている明確な求心走行説の文章です。

六十三難では十二経の五輸穴が全て指先の井穴から始まると書かれています。

六十五難も経脈は井穴から合穴にかけて流れると書かれています。

翻って十二経脈循環説側の文章はというと同じ二十三難の後段で太陰肺経から厥陰肝経に至るという文章が載っていました。たぶんこの一文だけです。

 

この問題について持っている難経の解釈書を当たったところ、西岡由記先生の「 図説『難経』 易経と難経」の二十三難の解釈の中で触れられていました。曰く「解説23-2 経脈流注は頭胸が終点 経脈流注に関しては「陰は上り、陽は下る」という定説がある。これは『霊枢』逆順肥痩の「手之三陰従蔵走手手之三陽従手走頭 足之三陽従頭走足 足之三陰従足走腹」が出典であり、これがいわゆる「迎随補瀉」の根拠にもなっている。その定説から七十二難の補瀉もこの説で解釈されることがあるが、これはとんでもないことで、『難経』の主張は『霊枢』とはっきり一線を画している。

『難経』の張する経脈の流れは、「末梢から中枢」の求心性であり馬王堆の流注に近い。末梢は四肢の五穴であり、中枢に関しては陰陽経で異なり、陽経は頭、陰経は胸である。「陽=頭」「陰=胸」の一貫した陰陽原理はこの後もくりかえされるテーマである。」

 

又七十二難でも再度難経における迎随の意味に触れておられます。関連の文章を読んでみます。

解説72-2 迎随補寫と、経脈流注の誤解

次に、末文では「迎随」とは「栄衛之流行」と「経脈之往来」を知ることだとある。

一般的に迎随補寫は、いわゆる「陽経は下り、陰経は上る」経脈流注の方向を基準にした補寫法といわれているが、これは疑問である。私は経絡人問であることを先に述べたが、特別敏感な者でなくとも経脈中の気の流れはさまざまに感じている。気の流れは状況に応じて変化する。おそらく経絡系統ともいうべきものが制御するのであろう。

また、この迎随の方法が『難経』にあるという誤解にも驚いてしまう。経脈流注に関しては、二十三難にあるように、陰陽経の終始が四肢と頭胸部にあることを論じているだけであり、また経脈の始まりは井穴と一貫して論じているのだから、「陽経は下り、陰経は上る」理論と『難経』とは全く関係がないと思っている。では『難経』のいう「迎随」とは何なのだろう。

それは「随其逆順而取之」とあるように「逆順」がわからなければ、それに「随(したがう)」ことさえもできないことになる。そして『難経』のいう「逆順」とは、陰から陽、陽から陰へと循環する「自然のめぐり」を基準にした「逆順」である。『難経』はこのことを一貫して論じてきている。

例えば季節の標準脈については四難以降繰りかえし論じられてきた。患者の脈がその季節に相応じていれば順だし、反していれば逆である。季節の脈は弦鈎毛石であらわされるが、細かく分析すれば陰陽気の割合で示される。それを示したのが十二消長卦である。この基本の形を知って本来の姿に陰陽を調和させる、それが調気の方であろう。

 

そして七十八難の文章「補寫の法呼吸出内の鍼を必とするに非ざるなり」は細かい補瀉方にこだわる必要は無いの意。それ以下の文章は押手で気を得る感覚が重要。そう言う解釈でよいのではないか、と感じています。

 

迎随に関してはただいま見てきたように多くの矛盾があります。とりわけ本会が重視してきた難経が内経以上に求心走行説に片寄っている事や五輸穴理論が求心走行説の一つとして捉えうることを思えば、今までのように刺針の手技のみ無条件に経絡循環説に従うことには疑問があります。本会の補寫法を再構築していく時に当たり、文章の字面のみに囚われることなく、真に実践的、効果的な鍼灸術の一環としての補寫法と言う観点で諸先生方に再検討して頂きたいと考えています。

 

 

 

名古屋夏期研 会長講義資料

 

1.

《針灸大成》卷四 席弘賦:“有平補平瀉,謂其陰陽不平而后平也。陽下之曰補,陰上之曰瀉。但得內外之氣調則已。”

 

:“平補平瀉がある。それは陰陽平衡が崩れたものを平衡にする。陽気を下へ押し込めば補であり、陰気を上へ引き揚げれば瀉である。ただ表層と深層の気が、調えばよい。

 

 《神応経》『内経』は「邪の集まる部位は、そこの正気が必ず傷付いている」という。例えば目が赤いなどの疾患では、明らかに邪熱によるものなので瀉法だけする。そのほかの諸疾患では平補平瀉がよく、瀉法したあと補法する。つまり邪を追い出してから真気を補うが、それが先師の伝えなかった秘訣である。もし人が発病していれば、瀉訣直説の手法を使って得気を促し、邪気を取って瀉し終ったら、次に補法して、患者に一口吸気させ、吸気時に捻鍼する。・・・

 

 

2.

島邦夫・・日本甲骨學家(1908年-1977年)著書「五行思想と礼記月令の研究」

 

洪範(こうはん)・・『書経』の一編。大法則の意。周の武王が革命に成功したとき,禹 (う) が整理した上帝の啓示を,殷の箕子 (きし) が武王に授けたとされる。実際は春秋戦国時代の作。五行思想をもとに,政治,道徳の九疇 (九大法則) を示している。水火木金土。

 

鄒衍(すう えん)・・中国の戦国時代の陰陽家。(紀元前305年頃 – 紀元前240年頃)五行思想を創始した。陰陽説は五行説と無関係に古くから存在したのに対し、五行説は陰陽説よりも後から出来たので、当初から陰陽説と一体であり、陰陽五行説といわれる。五行相勝(相剋)を歴史に当てはめ王朝の交代を説明。

 

董仲舒(とうちゅうじょ)・・前漢時代の陰陽家。(前176?―前104?)その礼楽(れいがく)説、天人相関説、災異説、革命理論など、漢代の思想を方向づけ、清(しん)末の公羊学派にも大きな影響を与えた。董仲舒(とうちゆうじよ)の《春秋繁露》には相克説と相生説が有機的に結合されている。このようにしていよいよ詳密となった五行の理論は陰陽の理論とともに漢代思想の一大潮流を形成した。…

 

班固(はんこ)・・中国後漢初期の歴史家、文学者(32年 – 92年)

 

「五行相生説がいつ頃から始まるかというと、古く見ても前漢の景帝(前195~前188年)のころが上限でしょう。それ以前は鄒衍の門人達は口を閉ざしていますからね。

この相生説を董仲舒が取り上げて主張したと言うことは大変な事です。この後前漢の末期に至るまで五行相生が主流になります。勿論このほかに礼記月令がそんな流れとは無関係に作られていきますが。陰陽五行は董仲舒のあとも陽雄、劉向劉歆の父子や班固などの学者によって色々取り上げられていきますが、後漢以降は五行相勝(相剋)説が主流となります。」

 

 

ちょっとためになる話その1: 王朝五徳説とシンボルカラー

(中国戦国時代の紀元前4~3世紀ころの斉の思想家、鄒衍(すうえん)が五行(ごぎょう)説を定式化した。

万物は土、木、金、火、水という五つの要素(五行または五徳)からなり、木は土の栄養を吸い取って衰退させ、金(属)は木を伐り、火は金を溶かし、水は火を消し、土は水を吸収する、というような他に打ち勝つ相互関係がある、とした。「五行相勝(相克)」説ともいう。(当時、惑星は五つであり、土星などこの名が付き、やがて西欧の週の曜日と対応して、現在の土曜などと名付けられた)

 さらに、これを王朝の興亡にあてはめた。ある王朝はこの五徳のどれかであり、それぞれの五徳が他の徳によって打ち負かされるように王朝は滅んでいったとした。伝説の帝王黄帝が土(徳)であり、さまざまな王、王朝の興亡を経て、夏王朝は木(徳)、殷王朝は金(徳)、周王朝は火(徳)そして秦を水(徳)とした。一説によれば、秦を支持していた鄒衍は水(徳)が(相対的に)最後に来るので、秦は水徳により永久の王朝だとしたという。土、木、金、火、水にはそれぞれ、黄、青、白、赤、黒の色があてられ、秦は意識的に黒色を朝廷で使ったという。

 

 前漢末の劉歆(りゅうきん。「きん」は「音」に「欠」)はこれに対して、「五行相生(そうしょう・そうじょう)」説に基づく新しい説を唱えた。木を擦り合っていると火が生じ、火が燃えたあとには灰(土)が生じ、土が集まって山となり金属を産出し、金は腐食して水に帰り(冷たい金属の表面に水滴が生まれる、金脈は近くに水脈を生む、という説もあり)、水は木を生長させる、という具合に木→火→土→金→水 (もっかどごんすい) →木の順に相手を強める影響をもたらすという関係がそれまでに言われていた。ある王朝は他の勢力を成長させやがてとって替わられるという。そして夏(金)、殷(水)、周(木)とし、秦は圧制のため正当な王朝とはみなさず、漢王朝は土徳ではなく火徳であるとした。漢の始祖劉邦が「赤帝(せきてい。伝説上の王、神皇=炎帝。黄帝と協力して漢民族を興したという)の子」と称していたことと符合させるためだと思われる。

 

この理論がこの後継続して用いられ、王朝のシンボルカラーとされたり、年号に「金」「黄」などが付けられたりした。また、前漢を滅ぼした新に対し漢の復活を求めた運動が「赤眉の乱」、後漢打倒を図った運動が「黄巾の乱」と名のったのもこの思想からである。

 

その後は、魏は土徳、晋は金徳、鮮卑(せんぴ)族の北魏王朝はそれ以前の非漢民族の王朝を正統と認めず、自らを正統として水徳、北周は木徳、隋が火徳、唐が土徳というのが有力な説である。)

 

「漢」は建国当時「水徳」を名乗っていましたが、

これは、秦が短期政権で徳を施していないので、

正統ではなく、周の火徳を継いだのは漢で「水徳」としたようですが、

文帝に賈誼は上書し、土徳の採用を提案しているようですが、

秦の制度に手を付けられず棚上げにされたようです。

武帝時の丞相の張蒼は秦を認めず周を継承して水徳を採用すべしと提議し、

民間人の公孫臣は秦もカウントして、

漢は土徳を採用すべしと主張し、

結局は武帝が土徳説を採用して服色を黄とすることとしました。

その時点で秦を「火徳」、漢を「土徳」に変更したようです。

 

①黄帝は黄河の黄土から文明が生まれたので「土徳」

(舜を最初に置く場合もあり)

②夏は「木」

③殷(商)は「金」

④周は「火」

⑤秦は、「水徳」を自称し鎧など黒色を重用しました。

⑥漢は、「土」

これは、

戦国時代に「鄒衍」らが周とその後来るであろう王朝の、

正統を説明できるように五行説と王朝交代を組み合わせた、

「木←金←火←水←土」五行相克説に拠っています。

周以前は戦国時代以降に当て嵌めたようです。

 

「新」の王莽は、

「聖人が前政権を打倒するのは間違い。」であり、

新は漢を「簒奪したのではなく禅譲された」とし、

五行相生説「土←火←木←水←金」(劉向・劉キン)を推奨します。

 

そのため、

①黄帝は「土」

②夏は「金」

③殷は「水」

④周は「木」

⑤漢は「火」

 

「禮記」の「月令」は古書中では相生説の順序に対応しており、

これにより周木・殷水・夏金・舜土となり、堯は火となり、

漢の高祖の先祖が「堯」であるとされたので、

漢と徳運が一致し、漢としては好都合だったようです。

王莽のブレインだった劉キンが相生説を唱えたこともあり、

王莽の新は「土徳」を名乗ります。

王莽はかねてから舜の子孫と吹聴していたので、

相生説を採用して舜が土徳ということであれば好都合だったようです。

 

王莽打倒で起っ赤眉の乱も、

漢の復興を表向きのスローガンにしていたので赤=火徳=漢ですね。

 

そういうこともあり相生説は定着し、

光武帝は、後漢を立てた際、

五行相生説をそのまま受け継ぎます。

新は王朝として認めず、

漢は継続しているとして併せて「火徳」とします。

『後漢書光武帝紀』に、

「始正火德,色尚赤」としてます。

 

後漢末に起った「黄巾の乱」は、土徳説。

袁術も黄帝の子孫と自称し、一時皇帝を名乗り国号を「仲家」としますが、

土徳の方位が「中」から採用。

魏が「黄初」呉が「黄武」の元号を用いたのも土徳を意識。

蜀が「炎興」の元号を採用したのも、

漢=火徳の再興を旗印にしたものでしょうね。

五行相生説は元まで続き、

⑥曹魏は「土徳」

⑦晋→金

⑧北魏→水

(当初黄帝の子孫を僭称し土徳を採用、その後晋の金徳を継承)

⑨北周→木

(南朝:東晋→金・宋→水・斉と梁は同族なので木・陳→火)

⑩隋→火

⑪唐→土

(当初漢の火徳を継承するとしますが、5年後隋継承)

⑫後梁→金

⑬後漢→水

⑭後周→木

⑮宋→火

⑯金→土

⑰元→金(モンゴル系ですので他称)

 

五行相克説が採用。

 

⑱明→火(紅巾軍発祥ですので火徳を意識)

⑲清→水(清の名称が水関連、満州族ですので明確ではないようです。)

 

以後参考程度に五行相生説に戻るようです。

⑳中華民国→木(民国国旗「青天白日満地紅」の青)こじつけ!

㉑中華人民共和国→火(「五星紅旗」の赤)こじつけ!

 

袁世凱は「明復興」をスローガンにしますので

火徳を意識したようですがすぐに挫折。

 

 201708

 

 

 

 

 

 

11.漢方鍼医巻頭言  「島田隆司先生の思い出」   会長 隅田真徳

 4月の会長講義で島田先生の話を出したら、妙に懐かしくなって色々なことを思い出した。1983年春、当時新宿にあった東洋鍼灸専門学校に入学した私は学生として漢方概論講師の島田隆司先生と出会った。島田先生の授業ではレ点と返り点が書き込まれた素問霊枢の原文が配布された。「まずは古典哲学をやる」といえばそれは上古天真論を素読する事であり、「今日は陰陽をやるぞ」といえば陰陽応象大論を素読する日であった。教室の端に座る者から順番に指名されて読んで行き、最後に島田先生が文章全体を解説した。

 

 当時は戦前の教育を受けた兵役経験者達がようやく定年に達し始めた時期であったし、その頃の高校生にとって漢文は必修科目だったのでそのような授業が可能だったのだと思う。素読が詰まる者には年配の生徒を中心に自然と助け船が出され、それでも難しい時は島田先生が助けた。私はなるほど鍼灸学校とはこういうものかと思い学んでいたのだが、その後人に聞いてみるとこのように古典鍼灸を肯定した授業を受けられたのは非常に希で幸運な部類であったらしい。

 

古典鍼灸における語学学習の重要さを強調しておられた島田先生は、1984年に後の内経学会の前身ともなる「原塾」を旗揚げした。何人かのクラスメートが参加したが、平日夕方19時からでは既に高円寺で修行中の私には縁のない話であった。

 

その代わりというわけではないが、私は巽堂卒業後に中国の大学への留学の希望を持ち始めていた。ある日、留学に関する情報を求めて島田先生を訪ねた。先生は「ふむふむ」と聞いてから、「来週もう一度来なさい」と。何か情報を持って来て頂けるかと期待した私が次の週尋ねてみるとまたも「ふむふむ、来週もう一度」であった。肩すかしを食らった不可解な思いを抱きつつさらに次の週尋ねてみると今度は一笑しつつ「よし3度来たな、それでは教えてやろう」と言いつつ1枚の名刺を手渡してくれた。

 

 当時日本人として初めて中医大学を卒業したと話題の兵頭明先生のものであった。島田先生としてはうっかり信念不確かな者を紹介しては相手に迷惑が掛かると考えたのかと思うが、あたかも諸葛孔明の三顧の礼に習ったかのような印象的な対処であった。

 

 1989年巽堂を卒業後上海中医での学生生活では留学生寮の2つ隣の部屋に島田先生の一番弟子とも言うべき佐合昌美先生が住んでいた。既に40才を超えていた佐合先生は留学生仲間ではちょっと浮いた存在で、唯一「島田話し」ができる私の部屋へは良く来訪していて、色々な古典の話を随分聞かせて頂いた。ある時「今度島田先生が来るよ」と仰るので何事かと聞いてみると内経学者の日中交流の会合があり、日本側代表として上海中医へ来るという。

 

 当日ご挨拶に出て問われるままに学生生活の様子など話すと島田先生は「うんうん、なるほどね」と言いつつ上機嫌でニコニコと目を細めていた。日本の古典鍼灸を代表して中国側の一流の学者と思う存分交流できて会心の思いで満足しておられたのだろうと察せられ、当時既に還暦に近い年齢に達していたことを思うと、先生の古典に対する情熱に敬服する思いがした。

 

(以前本会でも話題になった森立之を始めとした江戸期考証学派の水準の高い研究の成果、馬王堆漢墓からの出土品に端を発した内経における求心走行記述の問題はこうした交流の際に中国側から島田先生にもたらされたものだと後に聞いた。)

 

 1993年漢方鍼医会発足時には本会顧問にも就任し講演にも来て頂いたが、その後はお会いする機会のないままに2000年に逝去の報に接した。

 

 先日お話した「古典は読んでも読まれるな」は島田先生からも佐合先生からも聞いた記憶がある。島田先生は丸山昌朗先生の後継者として鍼灸界の古典研究をリードした人であり、1991年に東洋学術出版社が素問の訳本を出した時にも請われて執筆を担当した。佐合先生は2007年に武田科学振興財団が文部省からの補助金を得て京都仁和寺に伝わる「黄帝内経太素」の校勘を行った際作業チームのリーダーとして働き「日本一の太素読み」と称されるに至った人である。

 

 人生をかけて高いレベルで古典通読の道を歩んだ先輩達が「古典に酔っぱらってはいけない」とお互いに戒めあっていた、というエピソードは我々古典鍼灸の学習者にとっても示唆するところが少なくないと思っている。

201706

 

 

 

 

10.会長講演「難経五十難で読み解く季節の治療」(漢方鍼医会会長)隅田真徳

【はじめに】

最初に東洋医学概論の教科書の話をしたいのですが、教科書委員会というものがあり、「全国の鍼灸学校で使う東洋医学概論を統一しよう」と言う話がありました。出来上がった教科書を取り寄せて読んでみたところ、構成や内容が一部本会のテキスト『新版漢方鍼医基礎講座』とよく似ていると感じました。天人合一思想や気の医学の紹介項目、陰陽論を日向と日陰から紹介する所などです。気血津液弁証などの記載も見えました。非常に中医学に深く傾倒しており、私が学んだ物より項目の数が多く、様々な事が幅広く記載されている印象です。

今回、東洋医学概論の教科書を読むことで、本会のテキストがよく出来ていると改めて実感しました。項目は少ないのですが、私たち本当に知りたいと思うことに関しては、それぞれの先生が深く詳しく調べて記載してくれました。とても誇らしく感じます。もし機会があれば、皆さんも東洋医学概論の教科書に一度目を通して頂くと良いかと思います。

それでは本題に入ります。『漢方鍼医39号』の巻頭言でも書きましたが、今、本会では邪の治療が提唱されております。一方で邪の治療と従来の治療の位置づけがわからず頭が混乱している先生もおられると聞きます。今まで一生懸命やってきた先生ほどそうかもしれません。そこで今日は『難経』五十難を引用して本会の治療全体を解説したいと思います。

 

◆『難経』五十難による治療

病に虚邪有り、実邪有り、賊邪有り、微邪有り、正邪有り。何を以って之を別たん。然るなり、後ろより来たる者を虚邪と為し、前より来たる者を実邪と為し、勝たざる所より来たる者を賊邪と為し、勝つ所より来たる者を微邪と為し、自ら病む者を正邪と為す。何を以って之を言えば、仮令ば心病、中風之を得るを虚邪と為す、傷暑之を得るを正邪と為す、飲食労倦之を得るを実邪と為す、傷寒之を得るを微邪と為す、中湿之を得るを賊邪と為す。 (『難経』五十難)

 

昭和初期に古典鍼灸復興が叫ばれ井上・岡部・竹山といった先生方が最初に注目したのは六十九難、七十五難でした。特に六十九難の中の「虚するものはその母を補い実するものはその子を瀉す」は長く経絡治療の根幹理論となりました。これは五十難で言えば実邪と虚邪の処理にあたるだろうと考えます。

しかし、直に彼らも母子関係の治療だけではうまくいかないケースが有ることに気がつきます。むしろ相克関係こそ治療の要ではないかという話が出てきます。私が入会した時期の「東洋はり医学会」が肺肝、脾肝、脾腎という証を作って治療していたのはそうした疑問に対する取り組みであり、これは五十難で言うところの微邪賊邪の治療にあたると考えます。

やがて本会になってから三十三難の応用が提唱されました。相剋経を表裏の剛柔関係を応用して処理していくことで微邪賊邪の治療は大きく前進しました。

そして今、学術部が進めている「旺臓の時邪の治療」は正に「自ら病む」正邪の治療であると考えています。五季、六気というタイムラインの上で読み解くことで、ついに我々は五十難最後の邪である正邪の処理にたどり着くことができたわけです。

30年以上、時にはどこを歩いているのかよく分からない時もありましたが、今こうして五十難の邪の伝変という観点から見た時に、我々が迷うことなく一つの道を歩み続け、又同時に選経という点では終にゴールへたどり着いたと言うことがわかります。

五十難は一見すると邪の伝変を語っていますが、「精気が虚すれば邪が実する」の理論を重ねれば、そのまま精気の虚の有り所を語るストーリーでもあると考えて良いと思います。要は同じ現象のいずれを主体としてみるかの違いだけです。これが精気の虚を追ってきた30年間の変遷が邪の伝変論でもぴたりと説明できる道理です。
 井上・岡部の両師が六十九,七十五難を特別重要と考えたのは、明らかな治療原則として文言が書かれているからではないかと思います。また既に「病は精気の虚から始まる」事になっていたので五十難の邪の伝変論は軽視されることになったのではないかと理解しています。

しかし、今改めて読んでみると五十難こそが経絡からみた病の伝経の全体像であり、六十九難はむしろその一部を語っているに過ぎない文章であるということが理解出来るわけです。

何にしても第一歩はまず旺臓の時邪を探してみることです。4月上旬であれば六気で言えば二ノ気(少陰君火)で心病の季節です。五季で言えば春の肝病の季節です。脈診を入念に行いつつ七十四難或いは五行穴による取穴を行い両者の可能性を探ってみて下さい。正邪の意外なほどの多さと、うまくいった時の切れ味の良さに会員一同皆が気づくことが大事です。

もしも旺臓に時邪がなければ既に伝経済みと診て、他の四臓の病を探します。これは従来と同じ治療と考えて良いのです。四診を総合して病を類推し主証を決定した後は、単一主証、三十三難、四十九難、六十九難、七十五難等を駆使して処理するという事になります。もちろん伝経後の治療であっても季節を考えた七十四難、あるいは五行穴による取穴も重要な選択肢になると考えています。

 

 ◆『難経』六十九難について

 経絡治療の根幹であると考えられてきた六十九難ですが、最近余り話に出てこなくなったように感じます。少し六十九難についてお話させていただきます。

六十九の難に曰く、経に言う、虚する者は之を補い、実する者は之を瀉す。虚せず実せずんば、経を以って之を取るとは何の謂ぞや。然るなり、虚する者は其の母を補い、実する者は其の子を瀉す。当に先ず之を補い、然る後に之を瀉すべし。虚せず実せずんば、経を以って之を取るとは、是れ正経自ら病を生じ、他邪に中らざるなり。当に自ら其の経を取るべし。故に言う、経を以って之を取ると。(『難経』六十九難)

後半は色々な解釈があるところです。前半の「虚する者は其の母を補い、実する者は其の子を瀉す」と言う事に関しては、選経、選穴において昭和初期からメインの治療となっていました。肺虚証であれば、肺脾と補う、脾虚証であれば、脾心包と補うなど、肝虚証は肝腎、腎虚証は腎肺などと重要視します。

また、選穴においても、補う時はその母穴を、寫法の時はその子穴を、というような解釈でずっと行われてきたと言う歴史があります。その中で、母子関係だけではないようだ、むしろ相克関係が非常に重要ではないか、と言う話が徐々に出てきました。

 

◆『名人たちの経絡治療座談会』

一昨年、医道の日本社より『名人たちの経絡治療座談会』と言う本が出ました。読んでいくと数々の長年の疑問に答えてくれる物でした。そもそも『難経』では、相生関係だけではなく、相克関係と比較して述べているところがずっと続きます。五十難付近のところです。昭和初期の先生方が『難経』を読み進めていく中で、この辺りに気がつき、そういった会話が増えてくるわけです。

例えば、1960年2月に本間先生が「五十四難では臓病はその勝つところに伝うから治し難い、腑病はその子に伝わるから治しやすい」と話題にあげています。

その後、5月号に岡部先生が「季節という物が非常に問題とされると思うのですが、春病む人、夏病む人、秋病む人、冬病む人と言うようなことで、大体経絡も考えられると思うのです。春病む人は肝が悪いか、その反対に肺が悪い。夏病む人は心が悪いか、その反対に腎が悪い。秋病む人は肺が悪いか、その反対に肝が悪い。冬病む人は腎が悪いか、その反対に心が悪い。真中先生もおっしゃったように相克の線に沿って一つ悪い病気があると思うのです。やはり実証の人はその時期に悪いし、虚証の人はその反対が悪くなると言う事が非常に多いと思うのです。例えば喘息なんかでも梅雨に入って必ず喘息が出る人は脾経の病気が多いですね。秋9月から起きるのは、やはり肺が多いということが統計的に言えます」と明らかに旺臓という事を意識しています。鈴木福三郎先生もおっしゃっていましたが、五十六難の癪の治療、単純に相克というよりも伝経で邪を返すということで、旺臓かその相克経に狙いを絞るということで、五十四難や五十六難で気がついて行く過程の話ではないかと思いました。

そして、1962年竹山真一郎先生が「戦前、両国の板倉先生の研究室へ行っていた時、岡部君がある日もっともらしい顔をして言うことに、三里というツボは面白いツボだぞというわけだ。これを補うと腎虚証がとれる。三里でも腎が補えるという事を私に言ったわけだ」と話したそうです。この時には本会の剛柔治療にもう気がついている訳です。

『難経』を読めば分かりますが途中から相生、相克の関係を言い始めて、相生よりも相克関係の病の方が難しく、治しにくいという話になっていきます。昔から言われていますが、鍼灸には簡単ではなく少し治りづらい病気の方が多く来院されます。なぜなら、自由診療の世界ですから、簡単な病気の人はまず医者の所に行きます。あるいは時間の経過で治ってしまいます。治らない人が少々お金を出してやってきます。ですから、治療して治らない場合、これは相生ではなく、相克治療では、と容易に辿り着いていきます。そして『難経』の記述もそれを後押ししているように私は思いました。

その後、「経絡治療学会」で相克の治療がどう進化していったのかは読み取れないのですが、しかしこういった大先生の話を近くで聞いていたのが、夏期大学に第一回目から参加していた「東洋はり学会」の幹部の先生方で色々盛り上がっているところに我々が昭和50年代に入問していったと言う事だと思います。

肺虚肝実も脾虚肝実も相克関係を治療していこうと言う範疇に入っていたのではないかと思います。こうした治療も私たちは大変お世話になりましたし、決して的外れではないのですが、だんだんやらなくなっていきました。というのは切れ味が鈍かったという事だと思います。

 

◆『難経』三十三難について

平成5年に本会が旗揚げされ、最初に提唱されたのが三十三難です。

三十三の難に曰く、肝は青くして木に象(カタド)る、肺は白くして金に象る。

肝は水を得て沈み、木は水を得て浮かぶ、肺は水を得て浮かび、金は水を得て沈む。其の意何ぞや。然るなり、肝は純木にあらざるなり、乙(きのと)角なり、庚(かのえ)の柔(ジュウ)、大言すれば陰と陽、小言すれば夫と婦(ツマ)、其の微陽を釈(ス)て、微陰の気を吸う。其の意、金を楽しむ。又陰道に行くこと多し、故に肝をして水を得て沈ましむ。肺は純金にあらざるなり、辛(かのと)商なり、丙(ひのえ)の柔、大言すれば陰と陽、小言すれば夫と婦、其の微陰を釈て、婚して火に就く。其の意、火を楽しむ。又陽道に行くこと多し、故に肺をして水を得て浮かばしむ。肺熟して復た沈み、肝熟して復た浮かぶ。(故に知らんぬ、辛(かのと)は当に庚(かのえ)に帰すべし、乙(きのと)は当に甲(きのえ)に帰すべし。

角:角音  商:商音                  (『難経』三十三難)

この文章をどう考えたら良いかですが、十干とはそもそも何だろうかと言う事から考えていかなくてはならなりません。十干というのは、戦前で言えば成績の通信簿でも甲乙丙丁と使われていましたが、これは良い悪いと言う意味でなくて、生命循環の消長関係、盛衰と進退を説明した物で、これを長生論と言います。『難経本義大抄』の中に説明が載っています。

 長生論は各臓が気を受けて成長していく過程に関するもので肝の長生では申(七月)に気を受け亥(十月)に長生し寅(一月)に臨官し卯(二月)に帝旺(旺気)す。と 秋から冬へ陰の気を吸うて春の微陽となる。陰道行く事多し。故に横隔膜の下に位置する。

気血論では素問血気形志篇は厥陰は常に多血小気。陰たる血を多く包含する。五行にそれぞれ陰陽あり肝臓は 木の陰で10干では乙で猿7月つまり暦では秋五行では金に始まり金は陰陽の内庚の陽と夫婦交流するのである。

また肺の長生は寅(一月)に気を受け巳(四月)に長生し申(七月)に臨官し酉(八月)に帝旺する。と肺は春から夏の陽の気を吸うて秋の微陰となる。故に陽道行く事多し。よって 横隔膜の上に位置する。太陰は 常に 多気少血。陽の気を包含している。

肺は五行の辛の陰に属し虎1月に気を受け丙の陽の気を吸う手夫婦剛柔をなす。

以上肝・肺の生理的夫婦交流を示した難である。       (『難経本義大抄』)

この長生論は1年の時間軸であり、方位論でもあって、一般的には二十四方位と言う事で、十干と十二支を合わせて二十四方位となりますが、十干は十干で東西南北があるということです。時計状に甲乙丙丁戊己庚辛壬癸と並べます。その時に甲(きのえ)と己(つちのと)はお互いに交流しています。、その交流の仕方はお互いに気を吸い合うことです。男女、夫婦、婚して等と独特な表現をしている訳ですが、お互いの気の交流をする事で仲の良い夫婦のように、仲の良い男女の様にと表現され、さらに強化されてより活性化されることが、長生関係の基本です。これが『難経』になると一つ一つに臓腑の名前を当てなければならない訳です。

肺と小腸、胆と脾、肝と大腸というように、お互いの気を吸い合う事で健康な状態を保っています。このように五行の長生関係という物を下敷きにして見ないと三十三難は意味が分からなくなってしまいます。三十三難の治療で、「微陰の気をすてて微陽の気を吸う」とありますが、「気を吸う」というのはかなり珍しい表現です。

「気を吸う」という言葉の意味は、五行の長生関係を理解した上で十干の関係を見たときに、そもそも気を吸い合う関係であり、健康でないときは気を吸わせれば良いという事です。肺虚証の時には小腸の気を、肝虚証の時は大腸の気を吸わせれば良いのです。この事から三十三難の治療は補法の治療と言われていると私は考えます。

そして、「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」は植物の成長過程を表した物で、豆や朝顔の芽が出てくる時に、頭に種を乗せたまま出てきます。これが甲(かぶと)の状態で始まりなのです。ですから甲(こう)を始まりとするのですが、それが双葉が盛んに伸びる状態になって、陽気が盛んになり、茂っていき、実っていき、そして徐々に変わっていき終わっていくと言う事からも「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」という字が当てられています。

『易経』などにも物事の時間軸、消長の理論が下敷きにあります。三十三難、三十七難、四十難、六十四難、六十七難にはこうした五行の長生論が根っこにあり、整理しながら読んでいくとますます理解が深まるのではないかと思います。従来の治療を肯定した上で、更に季節の要素も強調して盛り込んでいったら良いのではないかと言う事をご理解下さい。

 

◆季節の治療について

診病の初め五決を気と為す。其の初めを知らんと欲すれば、先ず其の母を建つ。

所謂五決なる者は五脈なり。            (『素問』五蔵生成篇第十)

林億という先生の注によると、「まず旺時の旺気を立てて、後にすなわち邪と正を求むるなり」とあります。治療というのは旺時の旺気、今は何月何日なのか、旺臓は何なのかと言う事を考えた上で邪正の気を求めよと言っています。

この様な考えは古典の中でも特殊ではなく、根幹の理論であり、もっと重要視したいと私は思っています。そして、季節という要素は思った以上に体への影響が大きいと考えています。こうした知識は鍼灸師の基礎知識であると強調したいです。

我々が学んできた事の中では珍しく、脈を診る前から狙い所が分かっていると言う話でもあります。脈が診づらい方や子供の治療などで応用が利きます。

私も旺臓の治療で治療効果が出た事が何度かありました。子供が熱を出した時に脾病の季節でしたので、胃経の兪穴に鍼をすると、あっという間に子供の機嫌が良くなったのです。大きかった脈も小さくなり、訴えていた苦しさも無くなりました。健康な子供の外観病というのは結構正邪の治療が当たる確率が多いのではと思います。最終的には季節の治療というのは旺臓だけではなく、伝経していくし、伝経した先でも季節の要素を探っていく、あるいは五十六難を初めとする季節に関する示唆も多分当たっていると思います。岡部先生も注目していた程です。そう言った所まで深まっていけると思うのですが、まずは旺臓の時邪を触ってみるところから始めることをお勧めします。

今日の講義をもちまして2年間にわたる漢方苞徳会、鈴木福三郎先生による時邪に関する講義を一応のまとめとしたいと思います。時邪の話でもあるが、旺気の理論でもあり、どちらかだけだという風には私は考えておりません。研究部では季節への意識付けの定着という事を狙いとして、実技の時間にはまず旺臓のツボを探ってみるという手順で行うようにしています。去年の秋くらいから始めましたので後半年くらいは続けていきたいと考えています。

 

◆敦煌文書について

 資料の最後に古典の虫食いがあるのですが、これは古い時代の『難経』が出てきたと言う話があり、2014年中国の学会で発表された物で非常に面白いなと思ったので掲載しました。ロシアの博物館、ロシア科学アカデミー東洋学研究所サンクトペテルブルク支部の中で保存されていた「敦煌文章」です。(資料参照)それを研究していた中国の研究者が『難経』五十三難、三十八難、三十九難、二十五難、六十八難に当たる文章を発見しました。現在の我々が持っている『難経』とは多少の違いがあるという事です。

縦線を引いたのですが、最初の右の縦線に「次伝」と書かれています。五十三難に七伝間臓の話があったと思うのですが、七伝間臓も相生、相克の話ですよね。昔から「七伝」ではなくて「次伝」と言った方が正しいのではないか、いや、「七伝」が正しいと言う古来の解釈者もいて、この部分は両説合ったところですが、この文章には「次伝」とはっきり記載がありました。

真ん中付近の縦線は「元気の別使」です。これは、三十八難の元になっている文章ではないかと言われています。我々の持っている文章では、「原気の別」という風になっていますが、「元気の別使」とあります。他の所でも別使と言葉が使われていますので、意味的には余り変わりがないと思います。「次伝」の方は長年の論争に終止符を打つ物ではないかと研究者は評価しています。

この文章は5〜6世紀の物と言われていて、我々の知っている『難経』は、唐の時代の初めに楊玄操が『難経』を現在の形に並び替え改めたものよりも更に数100年早いと言う物ですから、相当早い物になります。そうは言っても最初に書かれたのが2世紀頃ですから、それでも数100年経ったものではあると思います。もっと沢山この様な文章が見つかれば面白いと思います。

この敦煌文書を目を皿のようにして読んでいるのですが、分からないことがあります。右の縦線を引いたところは「次伝」だとこの研究者が言うのですが、その一行前に「五臓病次」と明らかに書かれていますよね。この「次」の後、「五臓の病は次伝し・・・」と文章は続くはずなのですが五十三難にはそういう文章は無いですよね。たった一行前にそういう文章があると言う事は、もしもこれが五十三難の元になった文章とすれば、もっと長い文章だったのではないでしょううか。なぜなら、『難経』は極端に短いですからです。他の古典の文章はとても長く量が多いです。『難経」だけが極端に短いのは、誰かが早い時点で編集してカットした可能性があると思います。

その後、五十三難に当たる「次伝は肺から肝に・・・」とあるのにその一行前に不明の文章が載っていると言う事は、我々が知っている『難経』と言うのはそもそもの『難経』ではなく、相当短くカットされ後世に伝わった可能性もあるなと感じています。

中国の大学で鍼灸を学んでも残念ながら、『難経』はほとんど評価されていません。原典であると言う事は認められていますが、『難経』を教科書にして鍼灸を構築していこうと言う様なことは全くやっていないと言っても過言ではありません。あくまでも研究者が研究をの対象に行っていると言う感じでした。

それでは、『難経』は日本でどうかと言う事ですが、WHASでも日本の経絡治療諸派が『難経』に言及しながら鍼を発表すると言う場面は見聞きする中では全く無かったですね。ですから、よほど良い物が出てきたとしても、今後日本の鍼灸雑誌にはなかなか載らない可能性があると思いますので、ネット等で地道に探して、こういった場でシェアしていくしかないのかなと思いました。

 

◆終わりに

学生時代、島田隆司先生に古典に関する授業を受け持っていただき、その後も色々な付き合いがあります。内経学会の佐合先生、荒川先生とは親しくさせていただいてます。その先生方は古典には読み方があり、古典というのは玉石混交だと言われます。つまり、そもそも正確な文章が伝わっていない事を前提に考えなさいと言う事です。『内経』で言えば医者が書いたとは思えない文章が多数あり、また筆者全員が名医とは限らないのです。

そして、「古典は読んでも読まれるな」というお話を島田先生から何回か伺っております。「お酒は飲んでも飲まれるな」みたいな事です。どう言う意味かはそれぞれが考えれば良いと思います。私は余り酔っ払ってはいけないと思い、ある種冷静な自分というものを保持しながら古典を読むようにしております。

201704

 

 

 

 

 

 

9.漢方鍼医巻頭言 「難経五十難から整理する漢方鍼治療」    会長 隅田真徳

 

今本会では邪の治療が提唱されております。一方で新しい邪の治療と従来の治療の位置づけがわからず頭が混乱している先生もおられると聞きます。今まで一生懸命やってきた先生ほどそうかもしれません。そこで今日は難経五十難を引用して本会の治療全体を解説したいと思います。

「病に虚邪有り、実邪有り、賊邪有り、微邪有り、正邪有り。何を以って之を別たん。然るなり、後ろより来たる者を虚邪と為し、前より来たる者を実邪と為し、勝たざる所より来たる者を賊邪と為し、勝つ所より来たる者を微邪と為し、自ら病む者を正邪と為す。

何を以って之を言えば、仮令ば心病、中風之を得るを虚邪と為す、傷暑之を得るを正邪と為す、飲食労倦之を得るを実邪と為す、傷寒之を得るを微邪と為す、中湿之を得るを賊邪と為す。」(難経五十難)

昭和初期に古典鍼灸復興が叫ばれ井上・岡部・竹山といった先生方が最初に注目したのは六十九難七十五難でした。特に六十九難の中の「虚するものはその母を補い実するものはその子を瀉す」は長く経絡治療の根幹理論となりました。これは五十難で言えば実邪と虚邪の処理にあたるだろうと考えます。

しかし直に彼らも母子関係の治療だけではうまくいかないケースが有ることに気がつきます。むしろ相克関係こそ治療の要ではないかという話が出てくる。私が入会した時期の東洋はり医学会が肺肝、脾肝、脾腎という証を作って治療していたのはそうした疑問に対する取り組みであり、これは五十難で言うところの微邪賊邪の治療にあたると考えます。

やがて本会になってから三十三難の応用が提唱されました。相剋経を表裏の剛柔関係を応用して処理していくことで微邪賊邪の治療は大きく前進しました。

そして今学術部が進めている「旺臓の時邪の治療」は正に「自ら病む」正邪の治療であると考えています。五季、六気というタイムラインの上で読み解くことで、ついに我々は五十難最後の邪である正邪の処理にたどり着くことができたわけです。

30年以上、時にはどこを歩いているのかよくわからない時もありましたが、今こうして五十難の邪の伝変という観点から見た時に、我々が迷うことなく一つの道を歩み続け、又同時に選経という点では終にゴールへたどり着いたと言うことがわかります。

五十難は一見すると邪の伝変を語っていますが、「精気が虚すれば邪が実する」の理論を重ねれば、そのまま精気の虚の有り所を語るストーリーでもあると考えて良いと思います。要は同じ現象のいずれを主体としてみるかの違いだけです。これが精気の虚を追ってきた30年間の変遷が邪の伝変論でもぴたりと説明できる道理です。

 井上・岡部の両師が六十九,七十五難を特別重要と考えたのは、明らかな治療原則として文言が書かれているからではないかと思います。また既に「病は精気の虚から始まる」事になっていたので五十難の邪の伝変論は軽視されることになったのではないかと理解しています。
 しかし今改めて読んでみると五十難こそが経絡からみた病の伝経の全体像であり、六十九難はむしろその一部を語っているに過ぎない文章であるということが理解出来るわけです。

何にしても第一歩はまず旺臓の時邪を探してみることです。11月初旬は六気で言えば五ノ気:陽明燥金で肺病の季節です。五季で言えば7日の立冬を過ぎれば冬季の腎病の季節に入ります。脈診を入念に行いつつ七十四難或いは五行穴(金邪は金穴)による取穴を行い両者の可能性を探ってみて下さい。正邪の意外なほどの多さと、うまくいった時の切れ味の良さに会員一同皆が気づくことが大事です。

もしも旺臓に時邪がなければ既に伝経済みと診て、他の四臓の病を探します。これは従来と同じ治療と考えて良いのです。四診を総合して病を類推し主証を決定した後は、単一主証、三十三難、六十九難、七十五難等を駆使して処理するという事になります。

201701

 

 

8. 第21回夏期学術研修会 愛知大会《会長講演》
「季節の中での邪の治療へ」        漢方鍼医会会長 隅田真徳

1.総論
 
 漢方鍼医会夏期研愛知大会は主題「漢方はり治療の展望」、副題 「気血津液論、邪論、剛柔論などいかに臨床応用するのか」となっています。私はこの中の邪論に関するお話をしたいと思います。
 従来の精気論による治療だけではなく、邪論による治療も構築していこうということになって3年ほどが経ちます。それは「病は精気の虚から起こる」という病理解説の大命題を変更する作業でもあるかもしれません。「病は精気の虚から始まる・・・とも言い切れない」「病は邪の侵入と伝変によっても起こる」ということになるようです。本部の方では2年間に亘って「六気の治療」に取り組んできました。
六気とは『素問』六元正紀大論篇第七十一、『難経』七難を出典とする論で、一年を大凡60日ずつの六気に分類するものです。各気において五臓が旺臓から休臓に至るまで配当され、一定の盛衰のリズムのもとに巡っていきます。 学術部として、今年の2月に六気を踏まえた上での邪の治療の研究を促してきました。まずは、一年間はこのまま様子を見ようかという意見もあったのですが、今回夏期研を契機としてさらにいくつかの点を見直すことになりました。
 まず一点は『儒門事親』の記述を過度に重視することをやめ、旺臓の季節の邪を中心に時邪を探した方が良いということ。
二点目は六気だけではなく従来会が学習しテキストにも載っている五季も季節を分ける基準として採用し、しばらくは五季と六気を共に頭の中において選経選穴の基準とすることです。
一点目について、『儒門事親』では各気の旺臓の陰経の井穴に時邪があるということになっていますが、これではなかなか、時邪に当たる確率がさほど高くない、という結論です。むしろ旺臓の経絡の中で各季節の時邪に相当する穴を、まずは触って確かめたほうが良いということになってきています。六気は旺気する臓、即ち旺臓を中心とした五臓の盛衰に応じた病症の理解にたって鍼灸治療を展開して行くものですから、そういう観点から見ても合理的な治療の進め方といえるかもしれません。さらに、『難経』諸編の脈診に関する記述からみて、数脈、浮脈は腑病と診て陽経から触っていくべき、やはり邪は陽経から処理すると多くの先生方が感じておられる事と思います。二点目の五季と六気を共に用いるに関しては表をご覧下さい。

 

2.タイムライン
 それではまず両者の年間のタイムラインという点で見てみましょう。
まず六気です。今年から来年にかけての暦でみてみます。
1月21日大寒から3月21日までが初の気です。厥陰風木とも称します。旺臓は肝木。時邪は風邪です。
3月20日春分から5月19日までが二之気です。少陰君火とも称します。旺臓は心火。時邪は熱邪です。
5月20日小満から7月21日までが三之気です。少陽相火とも称します。旺臓は心包相火。時邪は暑邪です。
7月22日大暑から9月21日までが四之気です。太陰湿土とも称します。旺臓は脾土。時邪は湿邪です。
9月22日秋分から11月21日までが五之気です。陽明燥金とも称します。旺臓は肺金。時邪は燥邪です。
11月22日小雪から翌年1月19日までが終之気です。太陽寒水とも称します。旺臓は腎水。時邪は寒邪です。

では五季の方も見てみます。五季は春夏秋冬と土用からなっています。土用とは各季節の終わり18日間を指します。立春、立夏、立秋、立冬の四立の18日前を「土用の入り」と称し、土運が盛んになる時とされ、古来穴掘りや土運びといった土を犯す行為は禁じられてきたようです。
今年から来年にかけての暦でみてみます。
2月4日立春から5月4日までが春です。旺臓は肝木。時邪は風邪です。
5月5日立夏から8月6日までが夏です。旺臓は心火。時邪は暑邪です。
8月7日立秋から11月6日までが秋です。旺臓は肺金。時邪は寒邪です。
11月7日立冬から翌年2月3日までが冬です。旺臓は腎水。時邪は湿邪です。
そして、各季節の最後18日間がそれぞれ春の土用、夏の土用、秋の土用、冬の土用と言うことになります。旺臓は脾土。時邪は飲食労倦です。

一年間のタイムラインで見てみると両者は12ヶ月中7、8ヶ月で旺臓が一致していると言えます。五季の土用をどう解釈するかという問題はありますが、各季節のうちと考えるとすれば、1月は中旬過ぎの大寒までは腎水です。2月は両者ともほぼ肝木。3月は中旬過ぎの春分まで両者とも肝木。4月は六気が先に心火で火経の季節に入ります。5月には五季も心火となります。六気は5月下旬に心包相火となりますが、心、心包の使い分けは必ずしも分別が明らかではなく、6月、7月は共に火経が旺臓となる季節が続きます。
六気は7月下旬の大暑からが四の気で旺臓が脾土になります。五の気でも7月19日ぐらいから夏の土用に入ります。そして8月7日の立秋からは秋で旺臓は肺金になります。
8月9月は両者のずれが目立ちますが、9月下旬の秋分以降11月上旬までは共に旺臓を肺金とする季節です。五季では11月初旬、六気でも11月下旬には旺臓が腎水となり1月に続きます。


3,時邪の種類
 六気と五季にはタイムラインのずれ以外に邪の中身が違うというポイントがあります。一つずつ見ていきます。五季の邪は『難経』四十九難に準じて当てはめます。

《肝木》
肝木は両者とも風邪です。風邪はけいれんや麻痺等の動きの異常を引き起こすという面もありますが、注意すべきは熱、冷え、湿など他の外邪と結びついて体内に侵入する陽的な邪でもあるという事です。ですから春先の外感熱病や各種アレルギーなどの出現において、熱の表現が主であれ冷えの表現が主であれ風邪の関与を疑い、弦脈を見逃さないよう慎重に脈診をして、肝胆を中心に木穴、井穴を取穴して処理する事ができます。

《心火》
心火の邪は六気では熱邪、五季では暑邪、六気では心包相火が暑邪とされています。六気では熱邪より暑邪の方が熱の度合いが高いものとする解釈もあり、熱表現が強い症状には、心、小腸経よりも、心包、三焦経を用いるという運用もあるようです。私は三の気は心、小腸がでやすく、四の気は心包、三焦が反応しやすいという傾向は、ある程度当たっている気はしますが多くの場合、火経の季節では慎重に両者を比較しています。

《脾土》
脾土の邪は六気では湿邪ですが五季では飲食労倦です。四之気における太陰湿土の脾土は季節柄、外邪としての湿邪の侵襲を受けて脾胃の病症、全身倦怠を現しているケースがそうであろうと思います。右手関上、或いは、全体脈状としての緩脈をよく観察する必要があります。五季の土邪、飲食労倦は飲食の不摂生や過労、疲れ過ぎと解釈しています。各季節に土用があるわけですから、季節性の薄い邪と捉えてよいかと思っています。これは五季の土邪の特殊なところであろうかと思います。
 夏の土用に関していえば、折からの梅雨時のじめじめとした蒸し暑さの中で飲食不節のある人、疲労蓄積のある人は一段と症状が顕著になっている可能性があります。

《肺金》
肺金の邪は六気では燥邪。季節がら秋の乾いた空気が呼吸器粘膜を損傷して起きる外感熱病や各種アレルギーがあると思います。五季では肺金は寒邪であるとしています。
現代の日本の季節で8月上旬からさほどの寒気は無いように思いますが、暑い季節の冷房によって皮膚表面や呼吸器が冷やされていると言った状況に注目し、右手寸口、或いは、全体脈状としての浮、?脈に注目して診断し肺大腸経の金穴を中心に穴を探ります。
8月のアレルギーに関しては改めて注意してみると意外と多いように思いました。花粉の飛散状況に関してはネット上に多くの資料がありました。関東地方を例に取るとアレルギーを起こす代表的な植物であるスギの花粉は2月から4月をピークとし、秋は9月始めから漂い始めます。イネ科の植物は5月から6月を飛散のピークとし、一旦減少した後7月下旬から徐々に増え10月上旬までを第2のピークとしています。また秋のアレルゲンとして代表的なブタクサは7月下旬から花粉が漂い始め、8月中旬に増え8月下旬には飛散のピークを迎えます。ヨモギもほぼブタクサと同様の過程です。
それまでの印象では秋のアレルギーは残暑も治まる9月下旬の秋分の日ぐらいからと思い込んでいましたが、思ったよりも早く8月上旬にはアレルゲンの飛散を受けて発症する人が出てきているようです。

《腎水》
腎水の邪も違いがあります。六気では終之気の寒邪であり、正に冬期の季節の邪を代表した物で我々にとって非常になじみ深いものです。
五季では冬の腎水の邪は湿邪となります。腎は一身の水を主る物ですから水の停滞である湿邪と関連付けること自体は無理のないことと考えられます。しかし、冬は一般的に湿度の低い季節ですから、そのあたりをどう解釈したら良いだろうかと戸惑ってしまうかもしれません。
 冬は外気の温度も低く水の動きも緩やかになります。元来体質として湿邪を持っている人や湿気の多い土地に住んでいる人、体が水につかるような環境で働いている人は、寒邪と一体となった湿邪、即ち水の停滞により腎の問題が現れやすくなってくるという事があるかもしれません。その場合は腎、膀胱経の水穴を中心に穴を探ってみます。
 こうして考えてみると、腎水の邪としての湿は外邪としての湿というよりは体内の津液の滞りとしての湿であり、また肝木の風邪と同様に寒邪、熱邪と結びつくことでそれらの邪の体内への侵入を容易にしたり、固着を頑固なものにする媒体としての役割を指す物かもしれません。であるとすれば病症が寒、熱の表現があっても湿邪の存在が感じられるならば、選穴において水穴を探ってみても良いのかもしれません。このあたりは今後の研究課題であろうかと思います。


4.今の季節の治療に関する所感
 8月になってから実行委員長の方から、指導員向けのアドバイスを作ってメーリングリストへ流してもらいたいとご連絡を頂いただきました。自分もまだまだ研究中で大したことも書けそうにはないと思い困ってしまいました。代わりに今臨床室でどの様に考えながら治療を進めているかという所感をまとめて、講師の先生方のご指導と皆様方の学習の参考として頂きたいと思っています。
 この8月下旬という季節をみると、六気でいえば四之気で太陰湿土の季節となり時邪は湿邪になります。丁度梅雨明けの7月22日大暑以降の夏休みということで、外気は湿熱甚だしく、連日の猛暑に加え連夜の熱帯夜で寝苦しいうえに、冷飲食も多く、脾胃が疲れて体がだるくなっている人も多く来院します。脾胃の治療をする、土経の土穴を狙うという治療は割と多いと思っています。
 五季でいえば秋です。旺臓は肺金であり時邪は寒邪となります。8月7日の立秋を過ぎること既に3週間、一段と秋が深まりつつあるということになります。先ほどお話ししたように秋のアレルゲンはすでに7月下旬より飛散が始まり、ブタクサなどでは既に飛散のピークを迎えつつあるころです。そうした症状への目配りは当然して頂きたい。私からは以下の治験があります。

《治験例①》
〈治療日〉
8月15日
〈患者〉
40才女性
〈治療〉
8月10日前後から秋の花粉症が始まりました。鼻すんすん。毎年この時期に始まります。大腸経の井穴で鼻がすっきりし予後良好という治験があります。

《治験例②》
〈治療日〉
8月16日
〈患者〉
36才女性(妊娠希望)
〈治療〉
子供のころから両方の耳管開放症もあり音が響く、今日は一段とうるさい。年中鼻炎もあるが毎年8月は鼻耳共に特に良くない。子供の時の登山などでひどかった記憶がある。右大腸経井穴施術後、音の異常即座に改善し帰る頃には正常になりました。

さらにこの季節の現代生活の常で冷房病があります。
寝苦しい熱帯夜で冷房を付けっぱなしで寝てしまう。朝になったら肌が冷え切っており、のどがかすれ、体全体が重だるくなっている。こういう人も肺金の邪に当たっている可能性があります。もちろん職場で一日中強制的に冷房で冷やされている人も同様です。
ちなみに選穴において、五行穴と五井穴は共に考慮すべきと考えています。胃経土穴、或いは兪穴です。大腸経金穴、或いは経穴といった具合です。
邪の特性を考えた選穴では、風邪は寒熱を体の中へ侵入させ巡らせる媒体としての働きをもっています。湿邪は寒熱を体の中に固着させその害をしつこく慢性のもとする媒体としての働きを持っています。新しい病症は井穴、慢性の病症は合穴、そういう考え方もあるかなと考えたりしています。何人かのアトピーの患者に各時期で合穴が出やすい人がいます。
内外の症状は体の中の異変を知る東洋医学的な診断の成果であります。とはいえあまりに頼りすぎるのも問題です。どんな症状も長く患っていると本人は次第になれてあたりまえになってしまい、訴えることすらなくなるということはさして珍しいことではありません。あくまで脈状腹診等とも付き合わせて最終的な判断を下す様お願い致します。


5.10月の外来講演紹介
 10月の本部例会では京都大学の武田時昌先生をお呼びしての外来講演を予定しています。武田先生のご専門は中国科学史・科学思想史であり、その中には中国思想の要である1、2、3、4、5…という数字の考察も重要なテーマとして入っているそうです。このような学問を「術数学」というそうです。
 我々もよく知っているように1は太極、2は陰陽、3は三才、4は二陰二陽、5は五行、6は六気、七は・・、8は八卦、9は九星、10は十干、12は十二子。こうした要となる数字の研究が大きなテーマということです。
 武田先生は古代中国思想の術数学が古典鍼灸の世界では21世紀の今日でも脈々と生きているということを知ってから、鍼灸にも大変興味を抱いており、何年か前から『医道の日本』に「鍼灸パラダイム談義」と題するコラムを連載しておられます。今年も7月号の巻頭特集で中国古典に関する討論が掲載されていました。ある意味鍼灸界にとっての旬の人とも言えそうです。
昨年ある先生の紹介でお会い致しまして、私は今本会の学習の状況をお話ししました。即ち運気論に基づいた鍼灸治療の構築を目指していること。その過程で五季と六気の両方を尊重し運用していること。こういう段階にいる鍼灸臨床家である我々に対して何か啓発するようなお話しをして頂けないでしょうか、とお願いしたところ「それは私の専門分野ですよ!」と力強く快諾して頂き実現の運びとなったものです。それでは武田先生から頂いているレジュメをちょっと読ませて頂きます。

「五行六気の数理と医術―四時循環のサイエンス」
 人体の構造や病理のメカニズムを把握する基本概念は、天の六気、地の五行に由来する。天地を貫く自然の摂理として陰陽二気の相互作用を想定し、「五」と「六」のシステムによって万象を類別的に把握しようとする。天円地方、五藏六府、三陰三陽といった重要なコンセプトは、そこから導き出されている。そのアイデアの根底にあるのは、季節の巡りに見出される四時循環の数理である。
 鍼灸医術の極意は、後漢の名医、郭玉が発した「医は意なり」という名言に統括される。今日的には「医は仁術」とともに医療倫理のスローガンとして理解されているが、医者の心構えとして誠意、敬意を持たなければならないとする教訓ではない。医意をめぐる歴代の言説を通覧すると、鍼術、灸法または方剤学を特徴づける本質的な考察が多様になされている。そこには、「書は言を尽くさず、意は言を尽くさず」(『易』繋辞伝)の中国的不可知論をベースにした術数的思考が発揮されている。
 四時循環論や医意説は、鍼灸医療を実践するうえで最も重要なコンセプトである。そこで、漢代の鍼灸革命、運気論の近世的展開、明清医学の日本的受容などを概観しながら、両説に発揮された数理思考をわかりやすく概説する。また、四川省成都天回鎮の老官山漢墓から出土した医簡&経穴人形に関する最新情報を紹介し、鍼灸パラダイムの形成に遡及的な考察を試みたいと考えている。

そういうことです。10月の外来講演も是非楽しみにしていて下さい。

6.終わりに
我々が今取り組んでいる新しい治療は今まで以上の広がりのある世界を感じさせてくれるものです。それは古典が書き示す自然界の摂理、即ち大宇宙たる自然界が確かに小宇宙たる我々の人体と相呼応して動いているという真理へ近づいていく事でもあります。ぜひこの夏期研を通じてさらに多くの先生方が積極的にこの研究に取り組まれるよう願っております。

201608

 

 

 

 

7.『漢方鍼医』巻頭言「学術研究を固定化せず」

数年前に池田先生のお弟子さんのO先生をお呼びした時のことです。池田先生が中心になって書き上げたテキスト「日本鍼灸医学」が経絡治療学会諸派の中でもほとんど用いられていないと聞いていましたので、「それはどうしてでしょうか?」とお伺いしたところ、「経絡学会の古い先生方の中では今でも岡部・井上が最高なのです。あの時代に既に全てが出尽くしているんだと。もちろん両先生に並ぶことは決してできないのだが、我々は只ひたすらに岡部・井上という高い山を登っていくんだ。そういうものだ。」と言われたことがあるそうです。つまり「岡部・井上の時代に無かったものを学ぶ必要はない」というそういう考えで活動をしている方々がいるとのことでした。

一昨年他の会のある先生にお会いしたとき初対面でいきなり「漢方鍼医会の流祖はどなたですか?」と聞かれました。意外な質問に私は少々面食らいましたが「本会には流祖はいません。その時々の古い会員を中心に皆で研究を進めている会です。」とお答えしたところ、少し驚いていました。流祖も無しにこうした会運営が可能なのだろうか、と思われたのかもしれません。

又私の友人に経絡治療の老舗の会で30年ほど活動している人がいます。先日彼女と話をしたところその会では本会でいう研究部に相当する場がないという事を知りました。会としての活動は新人等を対象とした研修会、セミナーの運営とのことでした。

多くの古典鍼灸の会が我々とは違った形態で運営されているということを知って今更ながらに驚いています。以前会長であった福島先生が折に触れて「他の会は塾であるが、我々は研究会である。」と仰っていたのはこうした事情をご存じだったからだろうと思い当たるようになってきました。

流祖が既に存命でない場合には残された書物などからその足跡を辿ることが主な活動になるようです。治療内容も大きな変化、進歩は必ずしも望めない場合があるのかもしれません。存命中の場合は流祖が学習内容を一手に決めていく形態が多いようですから、流祖の進歩に従って進んでいくのかもしれません。どちらにしても一般の会員にとっては学習内容が既に決められている気楽さはある様な気がします。

本会の場合は「学術研究は固定化されたものであってはならない。」という会則が第1条に規定されています。これは過去の色々な経緯からくみ取られた会運営の要として、本会の創設に携わった先生方が大切にしてきた精神です。常に進み続けるのはなかなかに大変な面もありますが、そのおかげでこの20年の漢方鍼医会の大きな歩みがあり、活動に携わってきた会員個々の進歩もあったのだと実感しています。

総会の学術部長報告にも書きましたが毎月会員による活発な研究発表が行われているのは本会の特徴であり誇りとして良いことです。これからも今まで同様皆で知恵を絞りながら古典鍼灸一筋に歩みを進めていきたいと考えています。

201606

 

 

 

 

6.「漢方鍼治療まとめ」 4月会長講義  隅田真徳

まず新入会の皆様本日はおめでとうございます。今年の新入会員は12名ということで、大変ありがたいことです

30数年前に私が通っていた新宿の東洋鍼灸専門学校はまだ校長先生が柳谷正子先生の時代でした。柳谷祖霊先生の直弟子だった高齢の先生が多数おられて、学生達にも鍼灸師になれた喜びと誇りということを非常な熱意で語っておられました。「鍼灸師になれて良かったね。これはすばらしい仕事ですよ。是非あなた方も熱心に勉強するように、熱心な人は必ず残りますよ。」と励ましてくれたものです。

あれから30数年経ちましたが、私は今でもそうしたアドバイスは正しかったと思っています。是非皆様も熱心に勉強して夢を現実にして頂きますよう願っております。

僕の治療室のスタッフに入門講座受講の感想を聞くと、大体は良かったと言ってくれるので、安心して聞いているのですが。時々「人によっていうことが違う。A先生がこう言う、B先生は違うことを言う。脈の見方、鍼の角度でもA先生が言うこととB先生が、別々のことを言う。大変迷う。どうしたらいいかわからない。漢方鍼医会はどうなっているんですか?」まじめな方なんですね。

 以前は意見の相違が本当に甚だしくて、開口一番自分の独自見解を延々としゃべり続けるという方もいました。これでは受講生も講師の先生方も困るだろうということで、そういう経過もあってこのようなテキストを作ることになりました。それ以降は基本的に入門講座の講義はこのテキストを読みながら進めることになっています。読んだ上でならある程度は自分の意見もでてくるだろうとは思いますが、以前ほどのひどい状態は解消されたと思っています。

 鍼灸師は普段は自分の治療室で一人で病人と向き合っています。どうしても自分独自の考え方ができていく。或いは薬方などと比べても指先の感覚というパーソナルなものが重要で高い比重を持っている。

例えば中国医学の歴史というような本を読んでみても薬方の方は金元時代にこう言う先生が出てこう言う説を立てた。すると弟子の一人がこう発展させた。さらにその後に出てきた先生がこのような改良を加えて現代に至っております。という具合で実に流れというものが感じられる。鍼灸はどうかと言うとある先生がこの時代にこう言う考えで治療していました。次の時代に別の先生がそれとは全く無関係なこう言う治療をしていました。その次の時代にはまた別の先生がどちらの影響も感じさせないこんなこともやってはやっていました。みたいな感じですよね。流れを感じにくいなーと。そういうふうに思いながら読んだことがあるんです。薬方というものは天地に無数に存在する薬剤を一定の割合で配合して効かせるというかなりの難物で、先人に付いてそのやり方を学ぶだけで人生の半分は過ぎてします。わずかに自分流の一手を付け加えたらそろそろおしまい。

鍼灸は医者それぞれが原典を読んでそこから治療則を汲み取って五行穴を駆使すればあとは自分の感覚で補いながらやってもそれで結構効いてしまう、という感じできているような気もします。

ある先生が僕に「鍼灸は一人一流派だ」といったことがあります。成る程そう思えば良いのかなと思ったことがあります。会としても色々努力はしておりますけれども、どうしても全てが一致することはなかなか難しい。入門講座受講の心得としましては、そういう鍼灸の持っている特性というものをよくご理解いただいて、違いに戸惑い、批判するのではなく、いろいろな意見が聞けて便利だな。面白いな。その位余裕を持った気持ちでおられるたらよいのではないか、と考えます。

 

では本編

一昨年から六気の治療の学習が続き、ようやく一段落をいたしました。新しいことを学ぶのは常に楽しくエキサイティングな経験ですが、一方ではうまく整理していかないと頭がこんがらがる、整理がつかなくなって困ってしまう、ということにもなりかねないですね。もしも一部の会員の方にそうした混乱があるとすれば大変申し訳ないことですから、今日は本会の「漢方鍼治療」を俯瞰的に整理してまとめたいと思っています。これから話すことはあくまで私の私見です。ベテランの先生方はそれぞれのお考えをお持ちでしょうから、それで良いのです。新しい会員の方や色々勉強しすぎて整理がつかない方はこれを参考にして整理してみたら如何でしょうか?というそういうお話です。

 

私の頭の中では本会の治療は概ね資料のようになっています。

古典鍼灸の基本は「五臓の虚実を補寫する」ことと考えておりますから、治療の際の診断においてはまず五臓の弁証を行わなければいけません。弁証の基礎を支えるのは陰陽論、五行論、臓象論です。そうした理論を元に患者さんの表す脈状、腹証、内外の症状等四診を総合して診断していきます。例えば脈状が浮濇短にして腹部の表面ざらつきがある。さらに肺気の循環障害による呼吸器や皮膚のトラブルが起きている。または肺大腸の経絡に各種内外の邪が入り、望神や聞診に現れる変化を示しているならばそれらの症候を総合的に勘案して肺を治療の場とするという診断を下す、というそういう具合です。

 治療の形は基本的に三つあります。その臓だけを治療の対象とする正経自病、母子関係を基礎とした相生伝変、相克関係を基礎とした相克伝変です。いずれも難経、素問、霊枢に多くの記載のあるものであり、鍼灸が五行論を基礎とするかぎりは変わることのない三つであろうと思います。

 実際に実技の中に混じってみると今は一経だけしか触らないという場面も多いと思いますが、すべて基本的にはこの三つの中のどれかのパターンを踏まえた上で一経だけで終わらせている訳です。

病体を五臓の虚実という一点に帰納した形で診断を下し、その虚実を適正に調整することで本来の平衡がよみがえり、回復に向かう。

 ここが漢方鍼治療の基本です。いろいろ学びすぎて訳がわからなくなったときは迷わずここに戻ってきてください。そうすれば皆がいます。少なくとも僕はいます。そうお考えになって大丈夫です。

(研究部の実技のなかに入るとベテランの先生方がこれ熱邪が入っているね、湿邪があるね、あるいは弦脈を何とかしたい、濇脈を解消しないとね・・・色々言っていると思いますが、それは病理を語ったり、治療の目安を語っているというわけです。我々の診断はあくまで五臓の虚実であり、それを本経からいくか表裏の陽経からいくか、剛柔にあたる経から狙うか、そういう順番で治療を進めているわけです。)

 

正経自病は「正経(12経・奇経に対する用語)自ら病を生ず」という意味で、難経六十九難に出てきます。「虚せず実せずんば、経を以って之を取るとは、是れ正経自ら病を生じ、他邪に中らざるなり。当に自ら其の経を取るべし。故に言う、経を以って之を取ると。」

他の経絡からの邪によらず病を発しているのでその母子関係などを考慮することなくその経のみを治療すればよい、と言う風に解釈されています。

 (虚せず実せずのところにひっかかる方もいるかもしれません。虚しても実してもいなければ健康じゃないか、と言う風にですね。ここは古来あまりまともに解釈されていない印象があります。古典の文章には言葉が隠れている、と言う理論を応用すれば大きくは、甚だしくは虚したり実したりしていない。そういう意味かと思っています。ご存じのように病は伝経するたびに慢性化し、直りにくくなっていくようですから、邪が入った経で発病したものはまださほどには虚実が深まっていないという意味ではないかと考えます。)

相生伝変は同じ六十九難の中で「虚する者は其の母を補い、実する者は其の子を瀉す。」と紹介されています。経絡治療の歴史のなかでもっとも重視されてきた治療原則といって差し支えないと思います。肺虚の時は脾まで補う、肝虚の時は腎まで補うということを以前は当然のように行っていましたし、今でも他の会では行われていると思います。

この原則を取穴に応用した補寫法もあり、肺金経の土穴は補のツボとし、水穴を瀉の穴として使用するという具合です。岡部素道先生が大変よく用いていたようです。本会では

そんなに用いている人はまだいないようですが、テキストには「母子選穴法」として掲載されています。こうした応用は中世の鍼灸書「鍼灸大成」や「鍼灸聚英」に記載されているものを先人達が取り入れて使用したものです。

 相生伝変にもとづく選経は私も以前は定番のようにやっていました。ある意味深く考える必要もなく、そんなに熱心に脈診をしなくても良い、便利な一面もあったと思いますが、古典に対する理解が深まり、また脈診も進歩していくと、あんなに何でも使えるものではなかった。相生ばかり使っているとどうしても標治法が増えていくと今ではそう考えています。ある種の健康法の方の治療などでは使うことがあります。健康な方の妊娠促進。

そして相克伝経です。邪が相克的に伝変して発病しています。難経では五十難に「微邪、賊邪」という名前で「その勝つところ、勝たざるところへの伝変」という言葉で説明されています。さらに五十三、五十四難では「七伝と間臓」「臓病と腑病」という言葉で相生伝変と相克伝変を比較して説明しています。そこでは表現は違えど同様に相克伝変は相生伝変よりも治癒が難しいものであることが示されています。 

その治療としては難経三十三難に剛柔治療として説明されております。相克伝変と見た場合にはその尅される経の陽経を用いて治療するよう指示されております。一説では「

微陰の気を吸う」という表現を見てもこの治療は虚証には使えても実証には使えないのでは、という指摘もあります。しかし昨年学んだ六気の治療でも「邪の出所を叩く」という表現で、病臓の相克経を瀉法する話が頻繁に出ておりましたのを見ても、表現は違え、実の治療においても剛柔関係にある経を治療することは古典の原則に背かないだろうと考えています。(三十三難の剛柔関係を実の治療としてみた場合は五十難で言う「賊邪」に注目すべきそういうことになると思います。56難の癪の治療でも賊邪を治療する話になっている)

この際一つ問題があります。少なくとも10年ぐらい前までは、この段階で我々は「これを肺虚、あるいは肺虚証とみました。」と呼びあらわしていました。しかし色々な学術を学習する中でその習慣は薄れていきました。特に邪論の研究が始まってからはほとんどそうした言い方を研究会でも耳にすることが無くなりました。かといって肺実、脾実という言い方もなじみがありません。この虚実と補寫の問題に結論が出るまでは暫定的に「肺病」

「脾病」という言い方をしたらどうか、という提案を学術部からしております。

「肺病」「脾病」という言い方は古典に頻繁に出てくる言い方でありなじみがあります。

そして素問 蔵気法時論篇の記述を見てもわかるように虚証と実証を兼ねた大きな概念で使われております。(一読)今のところはこうした虚実を超越した言い方が便利で使い勝手が良いのではないかと考えています。(診断をしたという責任感、文字にしたときのわかりやすさ)

(例えば膀胱経一穴良かった。それが腎病の陽経として取ったのであれば、腎経はどうだろ、胃経はどうだろうか・・・心病の剛柔として触ったのであれば心小腸は心包三焦はどうだろうか・・・会での実技の際に用いてみて下さい。)

 

 以下第2節 その他の治療則というところに陰虚証、陽虚証、六経弁証、難経75難、と書きました。いずれも重要な治療であり、出番があると思いますがいつも必ず使うわけではありません。又それぞれ熱心に取り組んでいる先生がおられる反面皆が同じように重要と考えているわけではないかもしれません。そう考えるとやはり一段下げてこのように記載した方が整理しやすいと思います。時邪の処理も今後研究が進みある程度まとまった段階がくれば、こういうところに書き加えていけばよい。

陰虚証とは肝血や腎水といった人体の水分が不足したために虚熱が発生した状態のことです。治療としては肝、腎の栄穴、水穴を中心に用いて体を潤し虚熱を冷ましていきます。

 大変有用な考え方で、それまで病理など深く考えなかった我々にとって漢方鍼医会発足後最初に手にした成果であったと思いました。脈を整えるだけのでこぼこ調整から説明できる漢方理論に沿った治療へ、という要求を十分にかなえるものであったように感じたものです。しかし肩がこるのも虚熱、頭が痛くなるのも虚熱という具合におおよそ上半身の症状はことごとく陰虚によるものだという極端な言い方も一時はされていたように思います。今はだいだい適正な位置にあるようでしょうか。

 陰虚陽虚を考察してみるとですね。陽虚証と言うのは冷えているものを暖めましょうという話ですから、特別目新しいものではありません。古来誰でも知っているというか。それに対して陰虚証というものは金元医学の最大の成果の一つと言うことで薬方でも十分に時間をかけて学びます。とても大切にされている、高く評価されているのは間違いないです。陰虚証の治療は肝の疏泄の治療と並んで中国薬方の二本柱だという言い方も効いたことがあります。

本会において、非常に重要で良く持ちいられているけれども、会の当初あったように何でもかんでも陰虚と陽虚に分けないと行けないとか、熱症状はすべて陰虚証というほどには広い概念としては使われていないと思っています。あくまで限定的な観念であると思います。

 初学者から陰虚証って結局何なのか、と問われることがあります。基礎医学の学習として言い出せば陰虚証はあれもこれもとなって、全体像がつかみにくいと思うかもしれませんが、実際に病院へ行く或いはもっとわかりやすく言えば薬屋さんのレベルでいえば、陰虚とは六味地黄丸のシリーズ(杞菊地黄丸、知柏地黄丸、麦味地黄丸)のことといって差し支えないと思います。

つまりは中高年の男女に特徴的な虚熱証状です。だからそういった方剤の効能書きを読めば大体陰虚の患者象はつかめます。目のかすみや耳鳴り等五感器の異常、乾燥肌のカユミや湿疹、さらには不眠、健忘症などの虚熱症状を伴った上での足腰の痛みやしびれ、排尿の問題等の肝腎の虚証ですね。

後は長期に及ぶ呼吸器の症状、慢性の咳などは若年者でも肺の陰虚と言うことで出す薬があります。まあ大体こういったものが大凡陰虚証の範疇と思って間違えないと思います。

六経弁証は傷寒論に書かれています。外感熱病において外邪が体内に侵入した後伝経していくのには一定の順序があり、各段階における症候と治療法が書かれています。治療は薬方なのですが、各段階が太陽、陽明、少陽、太陰、少陰、厥陰と書かれていますので、これを経絡とみていわゆるカゼの治療における鍼灸への応用を研究したものです。特に陽経の三段階は風邪の初期から中期における治療の際基本的な知識として念頭に置いています。

太陽病は「浮脈、頭項強痛して悪寒す」陽明病は「胃実する」陽明経の症状のどの痛み、鼻の症状、消化器症状、少陽病は「往来寒熱し、胸脇苦満し、黙々として飲食を欲せず、心煩し、喜嘔す。」

(日本と中医学では順番が違うのだが、自分としては最初に習ったこのような日本流の解釈がピント来ると思う。太陽病は以前膀胱経を使っていたのでピンとこなくて長年使いこなせなかった。六気の治療の学習の過程で小腸経を使用することが効果的と知り、今では愛用している。陽明病は大腸経をよく使う。

少陽病は風邪がこじれた時の病です。常にない胃腸の症状に加えて、往来寒熱は特に重要です。必ずしも寒熱が往来しなくても、寒熱の異常がある。例えば風邪を引いて一週間たっているのに今だに悪寒がする、朝はよいが午後になると毎日のように微熱が来るといったものまで含めて往来寒熱の一種と見て良い場合があります。脾虚肝実、というより脾虚胆実。いわゆる風邪の治療に手の陽経という流れでいえば少陽病は三焦もあり得ると考えているが、まずは胆経のことが多い。)

難経75難は経絡治療の初期から69難と共に難経の中の重要な治療法則として注目されていきたという経緯があります。「東方実して西方虚せば南方を謝して北方を補う」という「暗号的」とも称される難解な文章でしられていて、資料で読む限り井上岡部の両先生達も度々話題に出していた割には、解読に成功して愛用していた節は感じられませんでした。(医道の日本:名人たちの経絡治療座談会)

本会では七十五難はとてもこだわって研究してくれた先生がおられますので、その成果があります。(私も数年前から心心包の治療として火経を用いた治療を集中的に研究した課程で瀉火補水の配穴。これは心病を剛柔の配穴で用いれば自然とそうなるわけですすけれども、その配穴が単に熱をおろすという範疇に収まらない、慢性痼疾の病にも効果的な可能性を感じています。とても可能性のある治療だと思います。井上岡部も心虚さずの霊枢邪客篇の文書にとても縛られていましたから。例の『鍼灸経絡治療』が昭和58年刊)ですから。そこでようやく「従来つまり火の虚証、火の実証は立てないことになっています。ところが火経の虚というのがあるわけで、火が虚すと健忘症とか不眠症というのが出てきます。だから火経を使わないという今までのやり方は、今後考えていかなければならないとおもいす。火経の代わりに心包経を使うなどというのはナンセンスです。現に経絡があり、心経にはちゃんと反応点が出ているのですから。」云々。逆に言えば昭和初期からずっと火経の使用を禁じてきたのだから瀉火補水の研究など進むはずがないわけですね。

火経を自由自在に使ってこうした難を解明していくのも今後の大切な課題ではないかなと考えています。

その下に治療を支える各論と題して、4大病形、気血津液論、邪正論(精気を補う治療と邪気を瀉す治療)と書きました。いずれも本会の治療を理論面から支えている各論です。

4大病形は昭和の初期の経絡治療の黎明期に本間祥白氏が提唱した病症の分類法です。素問の調経論を参考にして「鍼灸では病は陰虚、陽虚、陰実、陽実の4っつに大別できる」と提唱したものです。

この論が経絡治療諸派に引き継がれ、それぞれの会で初歩的な病症の分類などに用いられてきました。本会では発足当初から顧問を務めていただいた池田政一先生からご指導いただいた現状の理解が用いられています。

陰実陽実に関しては当時と大きな変化は無いようですが、陰虚陽虚に関しては少し違うようです。お兄さんの池田太喜夫先生の本などを読むとその時代までは陰虚陽虚も本間祥白流で解釈されていたようですが、池田先生が現在の湯液流の解釈に改めたようです。より実践的で治療内容を示唆する解釈になっていますので、上の第2節その他の治療則のところにも書きました。

本会の学習の中では4大病形による病症分類は以前ほど頻繁に用いられている訳ではないように思いますが、まだまだベテランを中心に口に上ることがありますので、承知しておく必要があります。

本会発足以来「鍼灸にも病理を、説明できる治療を」というかけ声の中で学習してきたのが気血津液論です。病理の説明を気血津液の生成と運搬の障害という一点から解説し理解していく考え方です。古典理論のなかに盛んに出てくる邪気を全く用いることなく病理を説明するものなので、学校で学んだ漢方理論とずいぶん違う、極端な考え方ではないかと思う方も思われるようなのですが、実はこの気血津液論は江戸時代の日本で流行した古方派の医師達がよく用いた事で発展してきたという歴史を持っており、ある意味日本の伝統医学の世界ではスタンダードな考え方であるという一面も持っています。(気血水ともいう)

実に良くできた説明で、複雑な病理を簡潔に説明できるという点で有用なものですが、本会において邪に対する瀉法の治療が提唱されてきている今では、こうした治療をもうまく説明できるものだろうかと疑問もあり、この辺は今後の課題になるかと思っています。

そして邪正論です。本会では発足以来長らく「病は精気の虚から起こる」という理論に基づいて理論を展開してきました。この考え方も昭和初期の経絡治療の黎明期に岡部井上という先師達が採用したものであり、またおそらく江戸時代以来の日本漢方の主流派の人々の思想を継いだものであったろうと考えています。

内外の邪、邪による伝経の理論、季節の影響などをほとんど考慮することなく、ひたすら「臓が虚しているから病が起こる、虚を補えば病症は改善する」という理論で病体を観察する考え方は複雑で全体像を俯瞰することさえ容易でない東洋医学の世界をある意味簡潔にまとめることができるという意味で、非常に便利な考え方です。

もう一つの病理観は病体を精気と邪気の闘争の観点から見る見方です。前回の大阪大会で改めてこうした邪気から見た病理観の見直しが提唱されています。特に難経四十九難に基づく五臓と五邪の絡み、このあたりの行方は今年の夏期研でも主題になっていくようです。

 

以上このように漢方鍼医会の治療をまとめてみました。

・基本は陰陽五行、臓象論に基づき、五臓の虚実を診断して適切に調整することである。

・治則の基本は正経自病、相生関係、相克関係のなかで選経することである。

・その他20年に亘る学習の中で古典に基づく個別の治療法があり、各自が適宜に用いている。

・古典医学全体をより理解しやすく、臨床的なものにする、或いはより深い理解を求める為に各種理論を採用している。

以下は各種選穴論、衛気営気論に基づく手技手法に関してはテキストに書いてあるとおりです。今回は私の中での分類です。皆様ご意見あると思いますので、懇親会の時などに各先生のご感想などお聞かせ下さい。

201604

 

 

 

5.東京漢方11月例会講義「心の治療」                            隅田真徳

四行を五行に

先年発表した「心の治療の実際」はその後少しづつ反響を呼んでいるようです。

夏期研でも何人かの先生に呼び止められ、心虚、心実の治療に関するコメントを求められましたし、こうして東京漢方鍼医会からも講義の要請も来ました。

そのなかで気になる反応がいくつかあります。それは「隅田は心の治療を多くやっているのか?そればっかりやっているのか?」といいうものです。

もちろんそういう事はありません。四診を踏まえた上で五臓皆、まんべんなく用いています。

とはいえその頻度は数年前に比べて格段に多くなっていることは否めません。心の治療は心熱に限らず上焦、あるいは胸に滞る熱邪を強力に下に押し下げるものです。その使い勝手と有効範囲の広さはなかなかのものがあるように思います。

元々中医の病理学などを見ても、五臓の中でも心の病証はもっともバラエティー豊かに描かれている傾向があります。色々な場面で使われて疑問はないと思います。

2012年に発表したようにそもそも「心心包を弁証の対象から外す」という考え方はそれほど歴史のあるものではありません。たぶん昭和初期の経絡治療黎明期。それ以前の資料を辿る事ができません。今となっては誰がどの様な意図でそう言い始め、皆を得心させたのか、正確な資料も残っていないのです。

あの時霊枢邪客編の文章からと説明したのもベテランの先生の記憶を頼りに書き上げたものです。

しかしそのような解釈はそれまでの中国医学の歴史の中にも探し出すことが出来ないものです。

 

 巡る治療

さらには私の交際の範囲で言えば他の古典鍼灸の団体においてももはやそうした解釈が幅広く共有されている形跡はありません。そういうことを踏まえたうえで、心・心包に対しても特別な制限を加えることなく、他の四臓と同じように弁証と治療の対象としていくのが良いと考えているわけです。(内経学会、苞徳会、積聚会・・)

五臓の内の一つが使えなかったということは、単純に考えても20%が欠けていることになります。

六陰経の内の二つが欠けていたと考えると33%が欠けていた事になります。

これでは本来鍼灸というもの、あるいは五臓六腑の調整というものが持っている力、治療の効果ががそれだけ削がれていたとも考えられる、ゆゆしき問題といえるのではないかな、と考えています。

さらにいえば外邪論に基づく治療を行うことによって、これからは五行が巡るようになっていきます。

五行も本来は陰遁陽遁の原理のもとに巡るものです。しかし一つが欠けて四行であったならこれは巡ることが出来ません。

ですから今までの治療は四診の結果を鑑みた上で「これは肺かな、脾かな或いは肝かな」といったいわば二次元の動きしかすることが出来ませんでした。

五行は五つそろって本来の三次元の立体的な動きをなすことが出来るようになります。

これからは五行が巡ることを前提に病態を見ていく。そうすると「あの人はまだ肺の季節にいるようだ。この人は既に腎の季節へ移っているな。」そのような感じになっていくし、そうなっていくことで長年我々が学んできた内経、難経、傷寒論の諸編の記述が臨床の場により生き生きと再現される、ということになって行くだろうと思っています。

 

心の生理病理 血脈を司どる

心の治療を考える前に前提となる心心包の生理病理をおさらいしたいと思います。

本会テキストの53ページから心の生理病理が書かれています。

「血脈を司る」・・解剖からも解ることですが心臓には太い血管が何本もつながれています。観察すれば血液が心臓を中心として循環することは古代人にも理解出来ることでした。まさに血脈を主っているといえます。

血脈を主るということには一つには陽気循環の源である、という意味があります。これは陰水循環の源である腎と対をなすものであると捉えて良いと思っています。

心にある根源的な陽気を君火といい、散布されて各臓で働く陽気を相火といい、下焦の腎に納まって下から全身を温煦する陽気を命門という。この辺は難しいのですが一応そういう理解でお願い致します。

心は絶え間ない鼓動によって陽気を生み続けており、それを全身に散布しています。 心気は苦味によって補われ、苦味の持つ冷却作用によって熱が過剰にならないよう調節しています。

こうした働きが衰えると胸に熱がたまっていき動悸、心痛、心煩など様々な症状が出現し、さらには西洋医学でいう心臓病、循環器障害に深く関わっていきます。

 

心の生理病理 血脈を主る

心の治療を考える前に前提となる心心包の生理病理をおさらいしたいと思います。

本会テキストの53ページから心の生理病理が書かれています。

「血脈を司る」・・解剖からも解ることですが心臓には太い血管が何本もつながれています。観察すれば血液が心臓を中心として循環することは古代人にも理解出来ることでした。まさに血脈を主っているといえます。

血脈を主るということには一つには陽気循環の源である、という意味があります。これは陰水循環の源である腎と対をなすものであると捉えて良いと思っています。

心にある根源的な陽気を君火といい、散布されて各臓で働く陽気を相火といい、下焦の腎に納まって下から全身を温煦する陽気を命門という。この辺は難しいのですが一応そういう理解でお願い致します。

心は絶え間ない鼓動によって陽気を生み続けており、それを全身に散布しています。 心気は苦味によって補われ、苦味の持つ冷却作用によって熱が過剰にならないよう調節しています。

こうした働きが衰えると胸に熱がたまっていき動悸、心痛、心煩など様々な症状が出現し、さらには西洋医学でいう心臓病、循環器障害に深く関わっていきます。

 

心の生理病理 神志を司る

ですから心に変調があると、精神活動全体に変調が出ます。「心血」という言葉はご存じだろうと思います。心臓が司る血、或いは心臓そのものを養う血、という意味で使われています。

心血は各組織を養う上にこうした心の精神活動を支える基礎的物質の一つです。心血が十分でなければ心悸、健忘、不眠、多夢といった症候が出現します。中医学的にはしばしば定番のように以上の症状が並ぶのですが、臨床的にはある種の感情障害も含めて精神不振全般と考えて良いように思います。そう考えると心の病症が如何に深く広いものであるかが、良く理解出来ることと思います。

 霊枢邪客編には「心に虚無し」と理解されてる一文があるわけですが、私もやはり心に虚証は少ないと思っています。心臓というものは胎児の段階から激しい鼓動を刻み初め、おおよそ老人になるまでその活動が衰えることはありません。

その生理から考えても老人以外に虚証は比較的成立しにくい。

むしろ古典の本を読んでも心の病症のほとんどは実証であり、熱証であるといって良いのではないでしょうか。陽気循環の源である心は上焦にあるが故に何か不都合があれば容易に過剰な熱邪に包まれるという病理を抱えています。

過剰な熱は気血の滞りを起こす病因となり、上焦から頭部にかけての各種器官の障害の源であり、神志の安寧を妨げる存在として作用していくわけです。

 

熱を下ろす、陽気の循環を促す

私達は健康なときには左胸が特別熱いとは感じません。そのような事は思いもしないで生きています。

それは心で産生したされた熱を全身に循環させるシステムが働いているからです。

心臓から血脈を通じて全身を巡っていく血液循環はもちろん代表的なものです。血液は豊かな陽気を含んだ液体として全身にくまなく陽気を運んでいきます。さらに津液を全身に循環させている腎水の働きもそうです。津液の潤いは同時に熱の偏りをただし全身にくまなく陽気を届ける働きを持っています。

そして肺気の宣発粛降の作用は皮膚などの比較的浅い部分でシャワーの様に浅く広くまんべんなく気を下ろし続けています。

しかし心心包の経絡が他の経絡と共同して行っている「上焦の熱を下に下げる」働きは最も素早く強力であり、さらには(それが経絡そのものの働きであるが故に)本会が行っているような(経穴への補寫によって経絡の活性化を促す)鍼灸術において最もコントロールしやすいものであると言えます。

少陰心経は少陰経同士の支脈の接続があり少陰腎経に陽気を下ろすことができます。厥陰心包経は 十二正経の流れが少陰腎経に次ぐものであり、この二経のつながりの強さはむしろ少陰心経とのそれを上回るものがあるのかもしれません。さらにそれぞれの陽経小腸経、三焦経も陰経に溢れた熱を上焦から排出し、同時に全身に陽気を巡らせる回路として機能していると思われます。

 

三焦治療考察

さらに心心包といった火経の剛柔関係に当たる膀胱経の強力な働きも見逃すことはできません。心兪厥陰兪といった背部の経穴から腰背を通じていっきに足底にまで陽気を運ぶ働きをしていると思われます。こうした基本的な五臓と経絡の生理をおさえてからさらに考察を進めます。 

過去において我々は三焦経の治療というものを重要視してきました。それは東洋はり医学会時代の福島弘道先生の時代にさかのぼる事ができるほどのものです。

三焦経は重要である。何か特別な働きがあるようだ。というわけで、通常の本治法が終わった後に三焦経の補いがさらに必要であるかどうかを確認し、効ありと見ればこれを補い治療を終える、というものでした。これが決まると脈は一層穏やかに、和緩を帯びて、ツヤのある脈へと変わったものです。

いまにして見るとあれは「心熱」あるいは「上焦に溜まった熱」を下に下ろしていたのではないかな、と思うのです。

 火経の経絡の中で、長く少陰心経はタブーとして本治法に使うことを禁じられていました。

厥陰心包経は六十九難の原則適用による脾虚証の治療以外では使用する事はありませんでした。

膀胱経を用いた剛柔治療はその存在さえ知られてませんでした。

腎水を補う方法は以前からよく知られており広く用いられていましたが、今にしてみれば火経自体とその剛柔を触るほどには適応範囲の広いものではありませんでした。

小腸経は発見されず、三焦経だけが偶然にも発見され、正体不明の治療として愛用されてきた、ということだったのではなかったのでしょうか。

 

心熱考察

それほどに我々が心熱に対する処方に疎かったのには理由がありました。そもそも昭和の時代に我々が学んだ漢方医学にはなぜか「心熱」が無かったのです。

私は八十年代初頭に新宿の東洋鍼灸専門学校に入りました。そこでは小野文恵先生に鍼灸学を教わり島田隆司先生に素問の講義を受けるという大変豪華な授業を受けることができました。そして全盛期の東洋はり医学会に入会し大会議室の席に座り切れず人と犬が廊下まで溢れる熱気の中で全国の会員達に混じって脈診流経絡治療の手ほどきを受けました。さらに高円寺の新井はり灸院で五年間の実地経験を踏んだあと、上海の中医学院に入学しました。

自分はすでにそこそこ漢方医学には詳しいはずだ、という気持ちでいたのですが、そうでもないことにすぐ気づきました。

中医基礎理論を学んで耳新しかったのは「肺の宣発粛降」「肝の疏泄」「脾の統血」そして「心熱」です。

特に心の場合はそもそも、その生理病理さえまともに考えたことがないことに改めて気づきました。「神志を司る」は聞き覚えがありました。でも「心血」も「心熱」もそれまで聞いた事が無く、何だかとってつけたようなもののような気がして「心の生理など勉強しても役に立つのだろうか」とさえ思った事を覚えています。

 

 心熱の理解は疫病との戦いの歴史から・1

その後中医学(薬方)を学んでわかったことは中国医学には心を特別扱いして弁証と治療の対象から外すというような思想がそもそも存在せず、心の治療の臨床に対する応用は他の四臟と何も変わる所はないということです。

(その時は「薬方では心に対するタブーは無いみたいだな」という中途半端な結論は得ながらもそれでは自分の鍼灸治療をどうこうしようなどという風には思いが及ばないままに帰国してきました。今にして思えばまだまだ「心に虚なし」の呪縛から解かれることはなかったのです。)

それはともかく。私はかねがね心の治療を理解するための早道は疫病との戦いの歴史を知ることではないかと思っています。

まず端的に心熱を知るには疫病の際高熱で苦しんでいる様子を想像すればよいのです。高熱を発し、意識混濁、人事不省、狭心症様の胸の苦しみ痛み、出血。激しくなれば痴呆、突然昏倒、最後には激しい出血と精神異常、発狂そして突然の心停止。これらは人体が心熱に急速に冒され最悪の事態に陥るまでの経過を示しています。

歴史をひもといてみれば、漢方医学の歴史は大規模で悲劇的な疫病との闘争の歴史であると言うことが出来ます。

「傷寒論」の著者張仲景はその序文の中で10年間に一族200人の中から2/3を越える死者を出した疫病を回顧し、その悲劇をくり返してはならぬと一大決心をして発憤し、古今の医方を収集してこの書を著した。と述べています。

 

 心熱の理解は疫病との戦いの歴史から・2

金元期に「内外傷弁惑論」を著した李東垣は1232年開封においてモンゴル軍の大軍に包囲された長期に亘る籠城戦を経験しました。その際「百万人が罹患して、毎日1000~2000人の死者が発生した疫病」に遭遇します。既に医者であった彼はその死者の多くが医術の力不足、医者の誤治によるものであることを痛感したと記述しています。この時の反省がその後の「脾胃論」に代表される名著につながっていったといわれています。

熱には古来より苦寒薬を多用する方法の効能が知られており、広く用いられてきました。苦味の気を下に下げる力が熱を冷ます力を持っているからです。重病時にはこれに痰を溶かす喀痰薬を配合して用います。疫病ともなればパニックになった人達が次々と患者を運んできます。

そして医者達は成功率は低いながらも唯一のこの方法を繰り返すしかなかった。その情景は2000年前に張仲景が六経弁証を編み出しても終わる事はありませんでした。

1000年前に李東垣が胃の気の重要さを説いても尚そうした情景が終わったわけではないようです。

 

心熱の理解は疫病との戦いの歴史から・3

さらに700年が経った18世紀前半、日本漢方の巨人吉益東洞が疫病(痘瘡・天然痘)に遭遇した時の情景が今に伝えられています。まず4才になる息子が罹患します。激しい苦しみのなか名医の父親の処方の甲斐なく亡くなります。

そして翌年今度は幼い娘が罹患してしまうのです。高熱を発し痘瘡独特の黒い斑点が全身に浮かび上がってくる娘を横に、東洞が「紫円」と名付けたその処方薬を準備していると、妻がやってきて「もうその薬だけはやめて欲しい」と泣いて止めるのです。(※この方剤には苦寒薬以外に激しい嘔吐を起こさせる薬と強力な下剤とが入っていました。患者は苦しみのあまりのたうち回り、しばしば気絶をしたと伝えられています。)

先年この薬を飲んでも助からなかった息子の服薬後の苦しみが見るに堪えなかったというわけです。しかし東堂は妻の手を振り払いこう言ってのけます。「娘の命は天命が握っている。死ぬのは天が見放したからである。この病邪にはこの薬こそが合うのだ」と。そして「紫円」を服用した娘は全快し、健康を回復したとの事です。壮絶の一語に尽きます。

 

心熱の理解は疫病との戦いの歴史から・4

疫病の際には医者はひたすら苦寒薬を大量投与して天に幸運を祈る。こうした状況は少なくとも2000年、もしかしたらもっと長い期間東アジアの普遍的な情景であったのではないでしょうか。18世紀に エドワード・ジェンナーが種痘法を開発し伝染病に対する強力な治療法が普及してようやく終わりを告げたものと思われます。

 苦味は心に作用して過剰な熱をおさえます。さらに火経の経絡全体を活性化し、熱を強力に下焦に押し下げます。その力は時に疫病にさえ打ち勝ち、起死回生の回復をもたらすことすらある。

そうであるならば我々現代の鍼灸師が診察室で出会うような中軽度の病人に対してその下(清)熱の効果は如何ばかりか。

苦寒薬の代わりに火経そのものを補瀉方にて操作する技術を研究して、大いに臨床に用いるべし。というのがこうした歴史を踏まえたうえでの私の認識であります。

 

冬に腎水を補い、夏には心火を瀉す

心熱とはまずは「心臓の活動に由来して発生した過剰な熱」というほどの概念と捉えて良いのではないかと思います。それは火経を中心とした経絡の働きの障害を示しています。

それらの経絡がもつ熱を下焦に下ろす働きが回復すれば心熱による症状は速やかに改善します。

しかし私は特に心の治療の対象は心熱と限る必要はないと感じています。それら火経は心熱だけを選んで下焦に下ろすわけではなく、上焦に上がってきた熱は何であれそれを下に下ろす働きをしているように思います。要は上焦に熱が溜まっている兆候があれば試みて良いのだ、とそう感じています。

下が冷えて上が熱するのは多くの患者に出現する普遍的なパターンです。下が冷えれば腰膝が痛み、下肢が浮腫んで、厥冷に苦しみます。駆逐された熱は上焦に登り頭痛肩こり、五感器の不調、不眠、精神不調のもとになります。そして内因にプラスして外因が加わります。冬期は寒さで冷えがひどくなり、夏期は暑さで熱がひどくなります。こうした寒熱の病を持つ人には「冬に腎水を補い、夏には心火を瀉す」を基本方針として治療を進めていきます。

この場合の夏冬はかなり感覚的なことです。春先でも充分暑くなる日が出てくればもう夏と考えても良いかも知れません。寒くなってくればもう冬、その程度のおおざっぱな話。スパンの大きな概念の話ととらえて応用してみて下さい。

201503

 

 

 

4.六気の治療考察「初之気~三之気」

○初之気の治療考察

平成28年の初之気は1月21日の大寒から3月19日の春分の前日迄です。

関東地方では12月の初旬から暮れ、お正月にかけては雨が少なく連日の晴天が続きます。乾ききった空気の中ですべての生き物が冬の眠りの中に時間を過ごします。寒暖の観点から見るならば1月下旬はまだ寒く関東地方でさえしばしば降雪があり、春未だ遠しの感があります。

しかし自然界と人間の関わりを子細に観察するならば大寒を境として春の芽生えが兆していることがわかります。1月中旬には連日の晴天が終わり徐々に雨天の日が混じり始めると、ほどなくしてインフルエンザやO157等の流行病のニュースが聞こえて来始めます。さらに関東では1月下旬、関西でも2月上旬にはスギ花粉の飛散が始まり、治療室にも花粉症の患者が訪れるようになります。例年であれば2月中旬には花粉症の症状が最盛期を迎えている患者もいる頃です。こうした事象はミクロの世界で春の生命活動が動き始めている事の証であり、当に発陳の時期を迎えようとしている事の表れであろうと思います。

・平成28年 初之気:1/21~3/19

・旺臓:肝の井穴を瀉す

初之気は六気の最初の気節であり、肝木が旺気して風邪を時邪として受けています。

『儒門事親』の説に従えば肝経井穴太敦に栄気の手法を施すことになります。しかしこの反応はすべての患者に施せるほどの頻度で出現するとは認められません。確かにその気の比較的初期に高頻度で出現する時期はありますが、そうした時期を過ぎれば頻度は落ちていく傾向にあるようです。また必ずしも陰経ではなく表裏関係にある陽経の井穴に反応が表れる場合もあります。初之気であれば胆経井穴竅陰穴です。特に胆経沿いの痛みやしびれ、風邪で少陽病に相当する兆しがある等の胆の病証があれば積極的に選穴の適応を診てみるべきです。

・相臓:心病の場合

心はこの時期は相の位置にあります。相臓の心では必ずしも邪は旺臓である肝から直接伝変するのではなく、肝から腎に伝わった風邪が相克的に心へ伝変することが多いとされています。※

その場合は膀胱経井穴至陰、腎経栄穴然谷、小腸経井穴少沢、心経栄穴少府(心包の病症がある場合は三焦経井穴関衝、心包栄穴労宮)の中から反応を見て2,3穴を選び栄気の手法を施します。あるいは陽経は栄穴を自穴として用いる場合もあります。

心病証:各種熱病や上焦から上の部位の熱病症。太陽小腸経、少陽三焦経沿いの痛みやしびれ。この季節の外感病による発熱。或いは花粉症、アトピー等で赤い、熱いといった熱の表現が強く表れている状態。

※難経五十六難にある旺臓から相臓への伝変は特殊なケースである、とのことです。むしろ一般的には邪を受けやすい休臓(旺気した直後の休臓は子育ての後のようなものであり、弱っているので邪を受けやすい)から相克関係で相臓へ伝変するケースが比較的多いようです。

例えば『素問 玉機真蔵論篇』では「五蔵は気を其の生ずる所に受け、これを其の勝つ所に伝う。(五蔵が病んだ場合、その疾病の伝わりかたは、病の気を自分が生んだ蔵から受け、それを自分が剋つ蔵に伝える。:腎は病の気を自分が生んだ臓(肝)から受けて自分が勝つところ(心)に伝える。)」とあり、旺臓→休臓→相臓の伝変があることが書かれています。

・死臓:脾病の場合

 脾はこの時期は死の位置にあります。木克土の関係から肝から直接風邪の伝変を受けます。その場合は胃経井穴厲兌、脾経栄穴を用います。或いは兪穴を自穴として用いる場合もあります。特に胃が悪いときは胃経井穴厲兌を探ってみます。脾の剛柔に当たる胆は旺臓の位置にありますので、旺臓の治療の際には胆経井穴の適応を積極的に診てみると良いかもしれません。

脾病証:脾胃の変調。陽明胃経沿いの痛みやしびれ。この季節の感染性の胃腸炎等。

 

・囚臓:肺病の場合

 肺はこの時期囚の位置にあり、肺積の治療を施す事になります。小腸経井穴少沢、心経栄穴少府、大腸経井穴商陽、肺経栄穴魚際の中から反応の良い2,3穴を選びます。或いは各々の自穴を用いる場合もあります。

 小腸・心の代わりに三焦・心包を用いる可能性があります。「熱の表現が激しいときは三焦・心包」という見方もあります。症状と脈の反応を見定めて選経選穴してください。

肺病証:呼吸器、皮膚等肺・大腸の変動による病症。陽明大腸経の痛みやしびれ。

外感熱病の初期には肺の剛柔に当たる小腸経井穴少沢が良い効果を現します。脈状が緊脈であり栄気の手法を施しても邪が十分にとれないときは井穴刺絡を施しても良い効果がある場合があります。

※外感熱病の多い季節です。悪寒・発熱・咽喉痛・咳等で浮数脈であれば肺病と診るのが順当ですが、熱が高く顔が赤くのどが腫れ上がって散大の脈状を帯びれば心病と診た方が良い場合があります。

 咳も又1つの独立した症状として扱うべき場合があります。咳の弁証も奥が深く、先日の講義でも『素問』欬論篇は11のタイプに分類できるというお話が出ていましたが、咳の時カギになるのは多くは肺経であり大腸経であると感じています。まずは肺が旺臓となる五之気の咳に顕著ですが、その後の終之気、この初之気も同様と感じます。咳が出て日の浅いものはもちろんですが、何週間も止まらないという時でも肝病と診て大腸―肝の剛柔治療。或いは大腸―肺―肝と用いる場合もあります。肺と大腸は六気の取穴が当たらなければ病症取穴は栄穴を中心に考えます。肺は上焦にあって熱を持ちやすい臓ですから、やはり熱を冷ます栄穴に反応が出ていることが多いようです。

私は肺と肝を同時に用いることは今もあまりないのですが、咳の時だけは同時に用いても良いな、と何度か感じたことがあります。(心・脾・腎の咳はそれぞれの臓の病症が濃く出ている場合が多いですね。)

 

・休臓:腎病の場合

腎はこの時期休の位置にあります。旺臓の肝から休臓の腎には直接風邪が伝変します。前述したように旺臓として役目を終えてほっとしているので休臓は邪を受けやすいのだと言われています。

また内経、難経などの諸篇にあるように外邪はその季節か、養生が良くないときは次の季節に発病すると書かれています。つまり終之気の旺臓の病(腎病)は初之気に発病するケースがあるわけです。これを伏邪といいます。どちらにしてもこの時期、腎病は起きやすいと考えて良いようです。旺臓の井穴に続いて膀胱経井穴至陰、腎経栄穴然谷の適応を診てみます。或いは自穴。

或いは肝→脾→腎(旺臓→死蔵→休臓)と伝変するケースもあります。腎病と共に脾病の病症が加わるケースでその可能性があります。その場合は胃経井穴厲兌、脾経栄穴太都、膀胱経井穴至陰、腎経栄穴然谷の中から治療穴を選びます。

腎病証:下半身の冷えや痛み、小水の異常、膀胱経の異常等

※この季節は急性腰痛がポツポツと出てくる季節でもあります。従来は春先の筋の引きつりと言うことで肝病とする傾向がありました。もちろんそれは間違えではないのですが、腰という部位自体は腎の司りであり、腎病と診た方が良い場合があります。その場合はまず胃経井穴から触っていきます。

 

⑥旺臓:肝病の場合

 肝はこの時期旺の位置にあります。風邪が旺臓である肝を襲いそのまま伝変することなく肝の病を引き起こしている場合があります。その場合は肝経井穴太敦、胆経井穴竅陰を触っても良いのですが、良い反応でなかった場合には症状、脈状から判断して他の穴を探しても良いと考えています。(井穴以外の選択肢として実するものはその子を瀉す、の理論から肝経行間、胆経侠谿が有効、という考えもあります。)

他の季節でも旺臓自体の治療は必ずしも井穴にこだわる必要は無いと考えますが、特に初之気の場合は肝の自穴が井穴になりますので、広く他の穴を探る必要が有ると考えています。

肝病証:筋の引きつり、婦人科諸症状、感情障害、胆経の異常等。

 

※冬になるとうつ病が増えます。日照時間が少なくなる事とも関係があるようです。毎年のように冬になると鬱的になる人もいます。日本だけではなく欧米でも観察されておりSeasonal Affective Disorder(季節性感情障害)といえばイコール冬期のうつ病のことを意味するようです。

 個人差はありますが11月~12月に始まり、2月~3月に終わっていく人が多いようです。又日本では古来「木の芽時」には精神状態が不安定になる人が多いとされています。こちらは3月~4月とされていて2月中旬は少し早いのかもしれませんが、さてどうでしょうか。いずれにしてもこの時期は多くの人が精神不安定で感情の伸びやかな発露が出にくい時期なのです。中医学ではうつ病に対しては肝の疏泄の異常と診るのが定番です。六気の治療でも初之気の旺臓が肝ですからこの時期のうつ病は肝病であると診ても無理はありません。一方でうつ病は脾積の病であるとも言います。また憂愁思慮が引き金となる心病の場合もあります。いずれにしても問診を行って病状を考察し、脈診腹診の結果と共に総合的に勘案したうえで治療に取りかかって下さい。

 

2.二之気考察

熱邪

平成28年 二之気:3/20~5/20

①前の気を引きずる:二之気で前の気をひきずる代表的な病症はアトピー、花粉症といったアレルギー症状ではないかと思います。早い人でも桜の開花まで、多くの人はゴールデンウイークまで症状ひきずるようです。六気の観点から見れば、初之気の「肺積」を引きずっている。といえそうです。

初之気のアトピー、花粉症の治療は小腸―心―肺の肺積の治療が多いようです。(或いは三焦―心包もあり得ます。)

初之気にアトピー、花粉症が肺積の治療で経過が良かった人は二之気には大腸―肺に変わることが多いようです。肺経の取穴は尺沢.魚際が良いとも言われています。自分の場合は二ノ気に入っても機械的にすぐに配穴を変えることはしません。良いときは変えず。脈が整わなくなってきたら次の配穴を考える、というスタンスです。

②旺臓:心の井穴を瀉す

二ノ気は心火が旺気して熱邪を時邪として受けています。時邪があれば心経井穴少衡に栄気の手法を施します。またはその陽経である小腸経井穴少沢穴を選択できる場合もあります。小腸経沿いの痛みやしびれ、傷寒論で言う太陽病の初期、アレルギー疾患などの肺積の病症等があれば特に注意したいと心がけています。

③相臓:脾病の場合

脾はこの時期は相の位置にあります。相臓の病は必ずしも旺臓からの直接の伝変ではなく、相克経である休臓からの伝変を想定する場合が多いようです。この場合は肝から熱邪の伝変を受けて発病している事になります。

その場合は胆経栄穴侠渓、肝経兪穴太衝、胃経栄穴内庭、脾経兪穴太白が六気の選穴。それが当たらないようであれば各種病症の取穴。 

この時期の脾病には春先の胃腸炎の他うつ病などがあります。日本では古来「木の芽時」という言葉があり、木の芽がふくらみ始める3月ぐらいから気分が不安定なる人が出る、と観察されています。六気の治療では神を司る心が旺臓、感情の疏泄を司る肝の休臓から、慮りの脾の相臓へと伝経するこのラインが狙いどころと感じています。

 

④死蔵:肺病の場合

肺はこの時期は死の位置にあります。死蔵は旺臓である心から直接熱邪の伝経を受けて発病しています。時邪が小腸にあれば剛柔の観点からも使いたいところです。

大腸栄穴二間、肺経兪穴太淵が六気の取穴。

この時期の肺の病は外感熱病、アトピー、花粉症等です。初之気ほどではないかもしれませんがまだまだ高熱を発する場合もあります。アレルギーも赤く熱する熱邪の表現が出やすい季節です。心小腸の穴はできるだけ触って熱邪を抜きたいと心がけていますし、肺経も六気の取穴が不適であれば魚際、尺沢と病症取穴を積極的に行っていきます。

 

⑤囚臓:腎病の場合(腎積)

腎はこの時期は囚の位置にあり、腎病は難経五十六難を根拠とした腎積の治療をすることになります。心から脾へと相生的に伝経した熱邪が土克水と相克的に伝経し腎で発病しています。

胃経栄穴内庭、脾経兪穴太白、腎経兪穴太渓を基本に考え、良い変化が無ければ病症で取穴します。

この時期の腎病は腰痛等下肢の痛み、足腰の冷え、むくみなどがあります。

また素問には「腎の障害になるときは皮痺(皮膚の冷え痺れ)」という記述があり、アトピー性皮膚炎でも特にこの時期に悪化するものには腎積の治療が良い場合があります。

「少陰の気が太過となると皮痺や隠疹が生じ、・・」『四時刺逆従論篇 第六十四』

急性腰痛は一般的には肝病と考えられていると思いますが、腎病の場合も意外と多いのです。特に腎積の季節である二ノ気の急性腰痛は腎病である可能性を考えながら治療に当たっています。

 

⑥休臓:肝病の場合

肝はこの時期は休の位置にあります。休臓は旺臓である心から直接熱邪が伝経している場合が多いのですが、時には死蔵の肺からの伝経を受けて発病している場合もありますので、剛柔に当たる大腸経の反応を見て診断する必要があります。胆経栄穴侠渓、肝経兪穴太衝。もしも肺からの伝経であると見れば大腸経栄穴二間、肺経兪穴が六気の選穴です。

めまい、筋の痛み、感情障害等

 

⑦旺臓:心病の場合

二ノ気の旺臓は心ですから二ノ気に心病を発すれば「正経自病」であるという言い方もあります。しかし正経自病は「虚せず実せずんば・・・」ですから、この解釈が正しいのか、私には確信がありません。

また旺臓で発病した場合は旺気しきれず発病してしまったという病理のため剛柔は使わないという考えもあると思いますが、私は旺臓の病でも時に剛柔を使うケースはあるように感じています。難経五十六難の説くように伝経した末に「心が旺気しきれず邪を返せず・・・」という場合もあるのでは無いか・・と思うことがあります。小腸経栄穴前谷、心経兪穴神門 腎からの伝経がある場合は膀胱経栄穴通谷、腎経兪穴太谿が六気の選穴。

二ノ気の心病は熱性の症状、温病、春の風邪、アレルギーの熱性が強いもの等です。熱性がとても強い場合は心包経を考慮します。

 

 

3.三之気考察

暑邪

平成28年 三之気:5/21~7/21

・三之気は旺臓が心包となりますが、その他の四臓の位置は二ノ気と変わりません。六気の選穴も同様です。5月中旬に始まる三之気は初夏の日差しの中で始まりますので、暑邪とするのは実感として理解できます。しかし一方で6月上旬からの梅雨の季節を考えたとき、単純に割り切ることはできないのです。梅雨には湿邪による脾病がどうしても多くなります。このあたり、六気の理論が日本の風土と一致していないのではないかという感想をどうしても持ってしまいます。

・二ノ気の旺臓が心であり、三の気の旺臓が心包であると規定されていることについては、二年間の追試を持ってしてもそれが適切なものであるか確たる自信が持てないのが現状です。しかし小腸経と三焦経という比較で考えたとき、六気の治療学習以前とはかなり認識が変わってきています。小腸経は太陽経でありますから外感熱病の初期の悪寒戦慄がする太陽病の時期には必ずといっていいほど使用を検討します。(初之気の肺積の治療という説もあります。いずれにしても初之気を中心とした冬季の配穴と考えています。)

また初之気は肺積の季節ですからどうしても小腸経―心経の出番が多くなります。肺の剛柔は小腸経であって、三焦経ではないからです。その流れで二ノ気のアレルギー症状も小腸経―心経を優先的に考える傾向がついてきています。(五行の観点から言えば火克金ですから三焦経も肺の剛柔といえるのでは無いか、と考えていたのですが、どうも三焦―心包は剛柔の関係から外されている、とされているようです。このあたり先生方の見解をお聞きしたいと思っています。)

・二之気、三之気の特徴は心心包が旺臓で火経の出番が多くなることです。丁度春の陽気が高まる時から初夏を経ていく時期ですので熱邪、暑邪の影響を実感できる時であり、臨床的効果も高いと感じます。特に脈状が浮、数が絡む時には陰経の井穴が良くない時は積極的に陽経の小腸、三焦経の適応を考慮します。

・この時期の代表的な病理は脾腎の関係と考えています。私自身の六気の治療の体験が胃経と腎経を用いた治療でしたので、特にこの土克水には注目してしまいます。丁度腎積の季節ということで出番が多くなります。心から伝経した外邪が脾を経由して腎で発病しますので脾腎の病症が中心です。言い換えれば胃が悪くて腰も痛い、という患者像でしょうか。(梅雨時になる三之気にも少なくない)私は胃経、腎経の中から穴を探す事が多いのですが、膀胱経の痛みが顕著であれば膀胱経を足す、或いは胃経膀胱経でまとめることもあります。

鈴木先生は脾経、胃経、膀胱経、腎経と皆使います。その方が良い場合もあるのかもしれません。そのあたりは偏見を持たずに謙虚に研究を続けたいと思っています。

以前在籍していた東洋はり医学会では「脾腎或いは脾虚腎虚証」というのがあり、脾経と腎経を共に補うと言う形がありました。本会発足以降も池田先生がやはり「脾腎もある。腎脾もある。」と言う話をなさっていたことがあり、一時期取り組んだことがありましたが段々と行わなくなってしまいました。

 

なぜ行わなくなったかと考えると、理由は2つあります。

1つ目の理由は陰経―陰経と用いて、脈状を整えることは難しい、という技術的な問題です。これは20代の東洋はりの時代から感じていたことです。2つ重ねると益々良くなるというよりも、却って脈を壊してしまいがち。他に方法があるのではないか、と言うことで単一主証に移行していった、という経過だったと理解しています。

しかしこれが陽経―陰経だと良いコンビを捜すのがさほど難しくない。良くなったものがさらに良くなる、と言うことを指先で感じられると自信を持って治療を終えることができます。

2つ目の理由は脾腎の病理なり生理なりをきちんと説明して頂いた記憶がないと言うことです。「東洋医学の原典をよくよく読むとそういうことがわかるのだ」という調子の説明しか記憶にないのです。この辺は先輩方への苦情と言うよりも「精気を補う」治療一本槍では原典を理解することができない、外邪の伝変という観点からみてこそ・・いう八木先生の主張に大きくうなずくべきところかもしれません。

こうした理論プラス「脾の病証と腎の病症が重なっている人。要は胃が悪くて腰が痛い人。」といった具体的な示唆を頂けたことで「そういう人ならいっぱい居るな」と頭の中が整理され、ようやく日常的に臨床応用できる様になったという気がしています。

鍼灸の証は「必ずそういうものがあるぞ」という確信の元に探さなければ決して見つけることが出ないものです。そのためには納得できる説明と具体的な手がかりが大変重要と改めて感じています。

昔難解だった脾腎の証も今では「胃腎、胃膀胱」という具体的な形で無理なく私の中では落ち着いた感じがしています。

こうした相剋伝変に関する難経五十六難や素問玉機真蔵論篇といった原典諸編の記述とその運用ノウハウの紹介は鈴木先生の講義の中でも最も有用かつ意義の高いものであり、本会が邪論の治療を構築するに当たって正に時を得た貴重な学びであったとの思いをかみしめています。

 

追記:

・「旺臓、相臓・・」という用語をつくってみました。「旺の位置にある臓は」では長すぎますので。

・試験的に「肺病、脾病」という言い方もしてみました。六気の治療は外邪に対する瀉法の治療ですから肺虚、脾虚という言い方はできません。かといって肺実、脾実という言い方もあまりなじみがありません。そもそも旺臓を触ってから各臓の病の治療をするとなると従来の証の呼び方でよいのか、という問題も出てきます。今のところはこのような虚実を超越した言い方が便利で使い勝手が良いのではないかと考えています。

 「肝病者、両脇下痛引少腹、令人善怒。虚則目無所見、耳無所聞、善恐、如人将捕之。」(「肝病の症状は、両脇下が痛み、それが下腹部に及んで引きつれ、怒りやすくなります。これは肝の実証に属する症状です。もしも肝が虚すると、両目がかすんで物がはっきり見えず、耳も音声をはっきり聞きわけられず、恐れやすくなり、まるでいまにも人に捕えられるかのようにびくびくしています。」『蔵気法時論篇 第二十二』

このように原典の中で「肺病、脾病」という言い方は実と虚を兼ねた言い方として使われている事がわかります。

 

201804

 

 

 

 

3.「心の治療の実際」:隅田真徳  (司会:神岡孝弘)

 一昨年「心虚証の研究」を発表しました。その際今まで本会で常識とされてきた「心に虚なし」の解釈は実はあまり歴史のあるものでは無いこと、中国では2000年 来の中国医学の思想史において類似の解釈が探すことができないこと。さらに経絡治療の先人達もそうした解釈に対して公に疑問の声を上げて来たこと。合理的 に考えてそうした解釈が成り立ちにくいと思えることなどを列挙して、心虚、心実証の研究を深めたいという思いを聞いて頂きました。

 昨年の20周 年の際にもお時間を頂きましたので、日本の鍼灸医が歴史的に中国鍼灸学習の手引きとしてきたとされる「鍼灸聚英」の中から、心心包の経脈をどのような病症 に用いてきたかを皆で一緒に見ていく機会を得ることができました。循環器疾患や精神疾患はもちろんのこと、呼吸器疾患や出血症状等思いの他広い範囲にわた り心心包の経穴が治療に応用されていた様子を垣間見ることができました。今回は「心の治療の実際」と題して治療室で私がどのように心心包を用いた治療を行っているかをまとめて発表したいと思います。

  その前に先ず私が心の治療に至った経緯を説明致します。そもそもはかなり以前ですが夏期研において鹿児島漢方の先生方から鹿児島には「相火の鍼」と称して 心包経に鍼をする先生がいる、自分たちも試してみたところこれが意外と良い効果がある、という話を聞いた事がありました。その時は「そういうこともあるかもしれないな」とは思ったもののさほど情熱を持って追試するという程ではありませんでした

 その後何年かして、ある会の先輩 から心包と腎を補うという治療をしていただことがありました。その当時私はめまい等でかなり調子が悪かったのですがそのときの治療は心地よくまたいつになく良い効果を感じました。それからは興味を持ち自分なりに心・心包の経穴を用いた治療を試み、又カルテにも記載するようになっていきました。

 そして数年前からテキスト編纂のために本会の幹部の先生方と親しく交わり議論をさせていただく中で「心に虚無し」の問題がだされ、何人かの先生から御自分も治療の中で心心包を用いて治療をしていると言う話が出ました。「そのうちこういったことも会の中で公に議論できる様になったら良いですね」と言う話になり、その時の為にと色々調べた内容が一昨年の「心虚証の研究」の発表につながっていきました。そういうわけでこうした心の治療も、何か私一人の突然の思いつきといったようなものではありませんので、その点は誤解なさらないようにお願い致します。又私がこうした治療を始めてからまだ数年しか経っていませんので、まだ理論的、技術的にも未熟な点は多いとは思いますが、そのあたりは斟酌してお聞き頂く様宜しくお願いいたします。まずはいくつかの病症に分け、その病理などもおさらいしていきながら、できるだけ漢方鍼治療の理論に沿った形でお話ししていきたいと思います。

 

 

○陰虚火旺

症例1・ H23/9/08  

女性  S28生まれ

主訴:冷えのぼせ、動悸 

問診:10年ほど前から足腰の冷えと慢性的な腰、膝の痛み、高血圧等があり本院にて鍼灸の治療を受けていた。症状が楽になると治療から遠ざかり、辛くなると又しばらく通うといった感じで通院してきていた。今回は半年程前から更年期と見られるのぼせが始まったという。のぼせが始まると上半身がカーッと熱くなり、大汗をかく。夏の終わりに風邪を引いた後から体調が一段と悪化し、のぼせと一緒に動悸がする様になってきた。

ひとしきりドキドキとしてなんだか気持ちが悪い。また自宅の2階に上がるだけでも息切れがして苦しくなってきたという。今までは何でもなかったのに2階に上がると息苦しくて手すりにもたれている自分に気づき不安になると嘆く。睡眠中もしばしばカーッとのぼせるので眠りが浅い。導眠剤のリーゼを服用2年。いつも疲れが抜けず体がだるい。やや太め、足は少し水滞を感じる。舌尖は赤い。

脈証:浮、数。左手寸口大にして有力。左手尺中浮、虚

腹証:表面冷たく、全体的に津液水多くタプタプとしている。小腹腎の見所は陥下して力なく虚している。心下部心の見所から胸に熱感あり。

治療:腎虚陰虚が高じて心熱が高ぶっている腎虚心実証とみました。心包経滎火穴労宮に指を置くと脈が緩やかになるのを感じる。さらに腎経滎火穴然谷を軽擦すると脈が程よく沈んでいく。労宮、然谷に営気の手法。

治療後浮いて速かった脈が沈んで緩やかな脈となると共に脈幅が締まって程よい脈となる。

標治法:失眠の施灸 腎兪に知熱灸

9/12:第2診:前回直後に大量の排尿がありその後のどが渇いて水を飲んだ。以後一日半程はのぼせ、汗が無く体調良かったとのこと。しかし2日目以降は特に夜はのぼせて目覚めて深く眠ることができない、と言う。一回目同様 労宮、然谷に営気の手法。

9/18:第3診:前回治療後3日ほどのぼせ、動悸、汗無く楽に過ごせた、と喜んでいるがその後はまた特に夜が辛いと訴える。

労宮穴、然谷穴へ加えさらに膀胱経委陽穴を触れると一段と脈にツヤがでる。同穴に衛気の手法を行う。

治療後今回は特に下肢の水滞が良く引いたように感じる。

9/25:第4診:前回後昨日まで6日間昼間はのぼせ、動悸はなく夜も随分眠りやすくなったとのこと。自分もまだまだ元気になれるのではないか、と随分安心した様子。

以後週に一度の同様の治療を数回くり返したあと治療終了となった模様。

考察:この患者の場合は40代以降下肢の冷えと腰膝の痛み、高血圧、肩こりなど慢性の腎虚の症状を抱えていて、以前から腎虚証の治療を加えていました。今回は更年期の不調に加えて風邪で体調を崩したことをきっかけに腎虚陰虚の基礎の上に心熱が高ぶり、のぼせ、動悸、不眠、といった症状が出現しました。こうした場合、脈証、腹証をみて熱の表現が明らかであれば腎よりも先ず心心包の穴を軽擦してみます。心心包が適応であれば、浮数大といった熱の表現である脈状は速やかに改善します。さらに不足であれば腎経の穴をも軽擦し、適応するようであればこれを合わせて用います。火経が主証の場合剛柔は膀胱経になりますが、私は委陽穴を割と良く使います。火経の陽経は三焦経です。委陽穴は膀胱経の穴でありながら三焦経の下合穴であり心包経が主証の際には特に相性が良いように感じています。

 

知柏地黄丸:六味地黄丸+知母(ちも)、黄柏  知母:苦寒 清熱瀉火養陰 

                      黄柏:苦寒 腎・膀胱 清熱燥湿

陰虚火旺、骨蒸潮熱

麦味地黄丸:六味地黄丸+五味子、麦門冬  

五味子:酸、鹹 肺腎 収斂肺補腎

               麦門冬:甘、微苦 微寒 心肺胃 滋陰潤肺 生津益胃  

               慢性咳、気管支炎、喘息

 

杞菊地黄丸:六味地黄丸+菊花、枸杞子  

菊花:甘、苦 微寒 肺肝 疏散風熱 清肝明目              

                  枸杞子:甘、平 肝腎 滋補肝腎 養血明目

                  ドライアイ、かすみ目

 

耳聾左慈丸:六味地黄丸+柴胡(五味子)、磁石

  柴胡:苦 微寒 肝胆 和解少陽、疏肝解欝、治瘧

          磁石:辛、寒 肝腎 潜陽(肝陽上亢による眩暈、耳鳴りを鎮める)

          肝腎不足による耳鳴り、難聴、眩暈

 

2,呼吸器疾患

「黄帝問いて曰く、肺の人をして咳せしむるは、何ぞや。岐伯対えて曰く、五蔵六府は皆人をして咳せしむ。独り肺のみに非ざるなり。帝曰く、顧わくは其の状を聞かん。岐伯曰く・・・・・心咳の状は、咳すれば則ち心痛み、喉中介介として梗状(こうじょう:つかえてふさがる。)の如く、甚だしければ則ち咽腫れ喉痺す。・・

症例2:H24/9/20

年齢:六〇代

性別:男性

主訴:慢性の咳。

望診:体格は170センチやや太り気味。顔は全体が白く血色無く、頬のみ赤く虚熱あり。性格は至極穏やかそうで、声は低く、静かで理知的なしゃべり方が印象的。

問診:オーストラリア人。日本人の奥さんの里帰りに伴って数週間前に来日。

奥さんの膝の痛みが当院の鍼灸治療で軽快したのをみて、自分もみて欲しいと来院した。

話しによると、子供の時以来の喘息もち。特に季節の変わり目などに長い咳と痰がでる。待合室にいる時からひっきりなしにゴホゴホと低い音が響いている。痰は無色。

肩背のこり、浅い眠り。しばしば夜半に覚醒し、熟睡することが難しいという。

脉診すると明らかな結代あり。本人にそのことを確認すると「私はそのこと(脈が結代すること)を知らなかった。しかし例えそうであっても驚かない。なぜならば私は本当に長いこと、喘息を患っているのだから。」とのこと。しかし、心悸、胸苦しさなど格別心臓の異常を示す症状は無い様子でした。

脈証:浮、やや数。結代あり。左手寸口大、有力。

腹証:全体は軟弱で力なく、心窩部は堅く拒按あり。胸部に熱感強く、腹部の冷感との差が大きい。

治療:心実証とみて左心経兪土穴神門を触れると、浮脈が沈み、数が治まっていくのを感じる。同穴に営気の手法。さらに小腸経兪木穴後溪に触れると脈にツヤがでてくる。同穴に衛気の手法。治療後脈が緩やかなツヤのでた脈になったことを確認。

標治法は横臥位にて肩甲間部の硬結を緩め、腹臥位にて大椎に知熱灸。

9/24

第2診

前回後四日間咳が止まったとのこと。顔色は血色が戻りツヤがでた。ここ数日は深く眠ることができて、リラックスできた、と喜んでいる。

前回同様の治療。

9/28

第3診

前回の治療後、夜一時咳がでた時もあったが、その後大量の小水(一晩3回)があり、朝に黒い痰が排出され、以後咳は止まり、呼吸も非常に楽である、とのこと。夜一時咳が出たのは天候の影響も有る(この日、一晩で気温が10度近く下がった。)かもしれないが、第2診の選穴が適切ではなかった可能性もあると考え、選穴を見直した。

左心経栄火穴 少府 小腸栄水穴 前谷

第3診後

患者はオーストラリアへ帰国。以後の経過を知ることができず残念でした。

 

考察:昨年鍼灸聚英を読んで以来呼吸器疾患に心の治療を試したいと思っていましたが、この患者に始めてその適応の可能性を感じ、試してみたところ思った以上の好結果に「さもあらん」との意を強くしました。

この患者は長年に亘る慢性の喘息のため陰陽の虚損が強くあり、それが顔面の血色の悪さに現れていたと思います。季節の変わり目で症状が悪化しており、胸部に強く熱が漂っている状態であることは脈証腹証に現れていました。心実証は心の経絡が持つ上焦の熱を下焦に押し下げる力を強めることで胸中にわだかまる熱を処理し呼吸器の症状を和らげるものと考えています。この患者さんの場合心包経よりも心経が適していたのは軽擦の結果ではありますが、脈の結代があったことと関係しているかもしれません。長期に及ぶ呼吸器疾患で心臓或いは脈に不正な状態が有れば心包経よりも心経が適応する可能性が高くなるかもしれない、と考えています。また、今回は剛柔の観点から小腸経を併せて用いました。呼吸器病の心の治療は心経、小腸経と行くことで、心、肺の熱を効率よく取る可能性があるのではないかと考えます。

※肺臓と心臓の関係が密であることについて解剖図から思うこと。「この図では中央下の心臓を露出するために肺の心臓よりの部分をめくりあげて書いている」

 

3.血熱証

「火盛んにして妄りに出血する者はそれが上からであれ下からであれ、必ずや熱の脈をした熱証によるのである。」(景岳全書・血証)

「ある者は肝火が盛んなる故に、ある者は激しく怒りて肝気が逆上した故に吐血をなす」(呂山堂類辨・辨血)

「血熱は・・即ち鼻血、歯の血、歯茎腫れ、舌上の出血、舌の腫れ、婦人科の下血、血尿、生理過多・・・」(神農本草経・気血諸病)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

症例2:H23/7/14

年齢:30代

性別:女性

主訴:アトピー性皮膚炎

望診:体格は155センチ痩せ気味。全身が日焼けをしたように赤く、目の周囲だけが白い。肌は乾いているが突っ張り、ところどころ傷口が口を開け、血膿がでている。舌先が赤い。

問診:幼少期からのアトピー性皮膚炎。成人後は小康を保っていたが4年前、妊娠を期に再発。さらに出産後悪化。炎症が全身に広がった。原因としては36時間に及ぶ難産、引っ越しのストレス、新居の化学物質などが考えられるとのこと。ステロイド治療を行い、小康を得るも2年後に脱ステロイドで悪化と改善を繰り返す。手足の冷えが強く、生理は1,2日で終わってしまうとの事。昨年は漢方薬と鍼灸治療に挑戦したが、効果は小さく信頼を無くして中断。

今現在は全身の痒みは元よりしばしば痛みを感じる。ひどい時は風が吹いても痛い、洋服がこすれても痛い。そのためソファーから立ち上がることさえ苦痛。痛みが少なくなるまで体が固まってしまうこともしばしばあり、苦痛から逃れるため過食症となっているとのこと。外から見ると無表情にして呆然とし、言葉はぽつぽつとしか語らない。痛みの苦しみ、病気への怒り、将来への不安、充分に世話をしてあげられない子供と夫への罪悪感が心の中で渦巻き、心が壊れそうであったとは、一年以上経ってから聞いた、当時の心境でありました。

脈証:浮、やや数、左手関上弦脈

腹証:皮膚が薄く所々皮膚が破れ血と膿が滲んでいる。触れると臍の周囲が堅く、大腹も筋張っている。左鼠径上部に抵抗あり。大腹から胸にかけて強く熱感あり。

治療:肝虚陰虚証と見て肝経栄火穴行間、腎経栄火穴然谷に営気の手法。

浮いた脈が中位に収まり、穏やかになった。両手三里と肝兪、腎兪穴へ知熱灸。

 

7/19 第2診

前回後夜は久しぶりによく寝られたとのこと。肌の方は血膿の出方が減少し、痛みが緩和した様だとのこと。脈状は前回よりやや落ち着いた様に見えるがまだまだ浮数である。

前回と同様の肝虚陰虚証の治療を行う。

第2診以降肝虚陰虚の治療が続く。標治法も変化はない。皮膚の出血は数回で止まり、痛みが引き、肌の赤みも徐々に引いていった。カルテによると8月13日の第5診の際に「過食が止まってきた」というコメントが見える。苦しさから逃れるための過食をしなくなってきた。それだけ苦痛が減少してきたという事の様でした。

まるで赤いTシャツを着ていた様だと思われた肌の色も普通のアトピーの色になり、そしてさらに肌色も垣間見える様になっていきました。

最初は押し黙り、呆然としていた様子だったのが、徐々におしゃべりをする様になっていきました。その後は週に一回の定期的な治療を継続していきました。「もうすっかり良くなった、そろそろ健康法かな」と思っていたのですが、平成24年に入ると徐々に体調が崩れます。

最初は2月上旬生理前2日にわたって体調が悪化した、との報告がありました。皮膚の炎症と痒みの再発と精神のうつ状態の悪化とのことでしたが、生理が来ると同時に消失したそうです。しかし生理後また症状が悪化しはじめました。

私はここまでの経過の良さに引きずられ「まあ何とかなるだろう」と肝虚証のまま、単一主証にしたりツボを五行穴の範囲で動かしたりという試行錯誤をしばらく繰り返してしまいました。そして気がつくといつしか来院時の様に赤い顔で無口な状態に戻ってしまっていました。

 

4月26日:あまりに改善しないのでもしやと思い、改めて脈を見直してみると、浮、大にして両手寸口がとくに騒がしい。

右心包経栄火穴を取穴すると、良い反応があります。心実証と見て営気の手法。 浮いた脈が中位に収まり、脈幅も程よく収まる。顔の赤みも引き、胸の熱も引いて行くのを感じました。ここから数回は心実証の治療。皮膚の炎症、痛みは改善するものの十分に満足できる状態ではありませんでした。

 

6月21日:右心包経栄火穴に加え、腎経栄火穴然谷に営気の手法を行う腎虚心実証へと変えたところ状態は大きく改善しました。

それから数回で来るたびに元の状態に戻ってゆく。赤みが引き、皮膚の痛み、次いで痒みが緩解し、精神的にも落ち着きまた快活におしゃべりをする様になっていきました。

 

昨年8月以降は月に2回、11月以降は月に1回程度の健康法へ移行していきました。証は主には腎虚心実、生理の前後などは時に心肝の六十九難型心虚証を行っています。本年2月7日の診療の際に「久しぶりに痒みが出てきた」というコメントがありました。昨年も2月上旬から体調不良が起きたことを考えると、季節性の邪が関係している様です。春の風邪が入ってきて体内の熱邪と一緒になって血熱を起こしていたようです。

 

考察:最初来た時は燃える様な赤さの皮膚の炎症、痛みを訴える皮膚炎、点状の出血、精神的な不安定さといった典型的な血熱の症状を見てすぐに肝の治療をしなければ、と思い至りました。そして肝虚陰虚証の治療を行ったところ、満足すべき脈状となり、また順調な症状の緩解を見ました。血熱に対して肝を病因とみる弁証の正しさを示す症例となったかと思いました。

生成24年の春先の体調の崩れは季節の邪によるものがあったかと思われましたし、過去の治療の成果にもひきずられ、いたずらに肝に対する治療にこだわり事態の悪化を招いてしまいました。基本に返って虚心に脈状を伺い寸口の浮大脈に気づいたこと、経験的に熱症状には心の治療が有効な局面があることから心の治療を始め、快方へ向かうことができたと考えています。

 

 

4.不安障害、パニック障害(以下パニック障害)

奔豚は金匱要略には「奔豚気病」と書かれております。

金匱要略 奔豚気病脈証并治第八

「奔豚病は下腹部から何かが上昇して胸、咽喉を突き今にも死にそうな発作が起こる。その発作が治まると普通に戻る。これは驚き、恐怖が原因である。」

《難経五十六難》によれば、五臓の積の一つで、腎の積のこととしています。症状は、少腹より胸部や咽喉に気が上衝し、発作時には苦痛が激しく、腹痛や、往来寒熱を発し、長期に及ぶと咳逆・骨痿・少気などをあらわす。多くは、腎臓の陰寒の気の上逆、あるいは肝経の気火の衝逆によりおこる。

「奔豚の病は、少腹より起こり、上って咽喉を衝き、発作すれば死せんと欲して復還り止む。」《金匱・奔豚気病》

「発汗後、其の人臍下悸する者は、奔豚を作さんと欲す。」《傷寒論・太陽病中》

「それ奔豚気は腎の積気なり、驚恐憂思の生ずる所より起こる・・気上下に遊走すること豚の走るが如く、故に奔豚という。」(諸病源候論)

中医学では肝腎不足。肝脾不和、肝胆湿熱、心腎不交、心脾両虚、心胆気虚といった弁証が見られます。

池田先生も古典の学び方の中で書かれているように、基本的には腎虚証でありまず腎を補い、その引き締める力を促すべきですが、動悸や胸苦しさ急な発汗等の病証からみて心の治療をするべき局面があると考えています。

 

初診:平成25年2月7日

年齢:30代

性別:女性

主訴:パニック障害

望診:色白で血色薄く、やや太り気味。

問診:1月はじめに胸部の痛みが起き、もしかして悪い病気ではないかとの疑念から不安感が強くなってきた。胸の痛みは小康を得たにもかかわらず動悸、深い緊張、発作的な息苦しさが発症した。さらに眠りが浅くなり、途中覚醒が頻繁であり熟睡感がない。

もともと心配性な所はあったと思うがこのようにそれが何日も続き、息苦しさまで出てくるのは全く初めての体験とのこと。動悸は以前からも時々はあったが今ほど頻繁であったことはない。(一日何十回もドンと来る感じ。全く次元の違う激しい動悸)

病院では不安障害、パニック障害などと診断されデパスなどの安定剤を処方されている。しかし服用によって胃脘部の痛みなどの胃腸障害も発症し、いまは頓服的な使用に備えて携帯している程度である。

脈証:やや浮、遅数は平、脈幅は小さく、左手尺中虚。

腹証:腹は冷たく、白く、津液の停滞多くぶよっとしている 下腹腎の見所は虚

治療:腎虚証と見て右腎経復溜に衛気の手法。さらに左足三里に衛気の手法。治療後脈が中位に落ち着きやや脈幅も増したようだった。

背中への知熱灸と失眠穴へ5壮づつ施灸。

2/11:第2診 前回後半日ほど気分が良く安心感が広がり、今後に期待を持ったとのこと。しかし睡眠は変化無く、動悸も苦しい。それを何とかなら無いだろうかと訴える。

改めて脈を見直すと左手寸口の脈が浮大にして虚。心虚証とみて右心包経栄穴労宮と腎経栄穴然谷に衛気の手法。治療後寸口の脉も整った模様。

2/14:第3診 前回後今日まで気分が良く安心感がある状態が続いている、とのこと。

一晩3回起きていた途中覚醒も一回になり、熟睡感が出てきた。しかし一日何回かドン、とくるような動悸は未だ変化はないとのこと。

脈は少し幅が出てきた様だが、遅数はむしろ遅に近く、力ない虚脈に感じる。

火経の剛柔である膀胱経の処穴を触診し、最も反応の良かった委陽穴を用いることとする。

労宮、然谷に加えて 右膀胱経合穴委陽に衛気の手法。

左肩首のはりがあるとのことで右側臥位にてナソ治療。

2/18:第4診 前回後ほぼ二日間動悸が出なかったとのこと。大変喜んで報告あり。その後動悸がまた復活しているもののその頻度は以前ほどではない、とのこと。

今回も前回同様の治療。

2/21:第5診 動悸が少なくなっている。

2/28:第6診 先日苦手の車の運転をしたあとから、又不安感が出てきた。動悸は順調に少なくなっている。不安感によく対処できる補腎を優先して然谷、労宮の順番にする

3/8:第七診 前回後不安感が消えてスッキリしたとのこと。同様の治療。

3/15:第八診 経過良好。

 

考察:この患者は非常にはっきりした急性のパニック障害でした。なんでも親に長年の心臓病の持病があり、1月に胸痛がした際に「自分も親のように心臓病なのではないか、あのように長く苦しむ様になるのではないか」と恐れているうちに発症したそうです。

 第1診では腎虚証としました。症状が激しい割りには脉証腹証に実の様子が感じられず、池田先生の本にあるような腎の補いのみで緩解していくケースではないかと考えました。

 治療後安心感が出て落ち着いたのは腎の引き締める力が回復し、丹田の気が回復し始めた兆候かと思います。しかしそれだけでは症状の改善が十分でなかったので積極的に心の治療をするべきと考えて、第2診では心虚陽虚証で治療しました。心血が回り始めて神明が明るくなり、睡眠が安定し始めました。それでも動悸が改善がないとの訴えで第3診では火経の剛柔である膀胱経の治療を加えました。膀胱経は心包と腎の間の陽気の循環を支える主要なルートです。陰経の治療のみで心腎の陽気が充分に回復しない時はこのように陽経を用います。

 パニック障害を起こす人は素因として色々な問題を持っているものです。この女性の場合は元来の脾虚の問題があるので中焦に水湿がたまりやすくてお腹が出ている。またその為心配性で考え出すと「こうだろうか、ああだろうか」と堂々巡りしてしまうところがある様に思われます。急性のパニックの症状が落ち着いたら、脾腎の陽気の改善を目標にして治療を行うことになるのではないか、と考えています。

※顔面頭部の経穴

睛明(手足の太陽、足陽明、陰蹻脈、陽蹻脈の交会穴)

攅竹(睛明の代用)四白(明目去風)頭維(足少陽、陽維脈)迎香(手足陽明)地倉(手足陽明、任脈、陽蹻脈)承漿(任脈、手足陽明、督脈、任脈、)廉泉(陰維脈、任脈)膻中(手厥陰の墓穴、足太陰、手太陽、手少陽、任脈)

 

5、心虚陽虚証

初診:平成25年1月4日

年齢:30代

性別:女性 OL

主訴:うつ病   

望診:体が細く、力なく、手足が冷えている。呼吸が浅く声も小さく時によく聞きとれない。無表情でぽつぽつと要領を得ない話をする。

問診:7年前田舎から出てきて専門学校へ入学。その際の環境の変化について行けずうつ病を発症。気持ちが塞ぎ、鬱々として外出が困難。眠りも浅く途中覚醒があり、熟睡感がない。抗うつ剤を常用しており、時々睡眠薬も服用。胸がふさがる感じがあり、首肩の張りがあると訴えるが触診してもたいした緊張は感じない。疲れやすく、便秘がち。

生来のアトピー性皮膚炎があり体幹部に広く軽い炎症が広がっているが本人によれば「今はアトピーは調子の良い状態で気にはならない。」とのこと。

元来月経は不順気味であったが、ここ一年生理が無くその原因は不明。

脈証:沈細にしてやや固い 左手寸口虚 時に結代あり。

腹証:表面ざらつき冷たい。所々アトピーの湿疹あり。心窩部は力なく、うっすらと汗をかいている。

治療:心虚陽虚証と見て心包経兪土穴太陵に衛気の手法、脈診すると脈に太さが出てやや浮いてくる、不十分と見てさらに肝経兪土穴太衝を探ると脈に柔らかさが出てくる。そのまま同穴に衛気の手法。さらに陽気を補うため三焦経陽池穴に衛気の手法。不十分ながらもいっそう脈に太さが出て来るのを確認しました。

手三里、三陰交に知熱灸。

 

1/12:第2診 前回後はいつになく夜眠れ、肩首のはりも楽になったとのこと。

脈診してみても前回同様の脈状に感じて同様の配穴にて治療。

以後2/8の第6診まで同様の治療。睡眠は良く取れる様になり、うつ的な気分や胸のふさがりも緩解し肩首の張りも楽になり、体幹部のアトピーが薄れてきた、と評価する一方で体がだるいと訴える。睡眠薬を減らしたこともあり、脈状は以前より柔らかくはなってきたが、沈細の脈状は基本的にある、と思われる。

2/16:第7診 もう一度穴を取り直してみると心包経栄火穴労宮を触ると思ったよりも脈が浮きふくらむ様に感じるので、思い切ってこの労宮穴のみで治療してみる。さらに陽気を挙げるために百会穴へ留置鍼。以後3回同様の治療。

3/16:第10診 脈状は徐々に幅が出てきており結代も少なくなる等良い変化を術者は感じるものの本人は体がだるく、疲れやすいと訴える。さらに食欲もさほどではない旨の訴えがあり脾経を探ってみると脈状の良い変化があり、労宮穴に続いて脾経栄火穴大都に衛気の手法。

3/23:第11診 前回治療後生理が来た。と報告があった。1年以上ぶりだったが結構きちんとした月経であったと珍しく表情も生き生きとしていた。前回同様の治療。

3/30:第12診 ここまでの総括。脈状はやや浮き、太くなり柔らかさは出てきたが、やはり沈細の範囲内であると思う。また最初はやや遅脈であったのが平かやや数に感じるときもある。腹証は自汗は半分ほどになり少し暖かさが出てきた。本人の弁では睡眠が改善して睡眠薬の使用が少なくなり、肩首の張りが楽になってきた。最初の数回でうつ的な気分は改善したものの、その後はさらに一段の改善は感じられない。また体幹部のアトピーがきれいになった事は良いが、顔だけ湿疹が引いていかない。

 

考察:この患者は幼少時からのアトピー性皮膚炎との闘病の中で薬剤の多用により肝の陰陽の虚損があり、それが彼女の素因として大きな影響を与えているものと思われます。肝の疏泄の不足が脾の陽虚を引き起こしており、脾胃の運化作用の低下により体が力なく細く、手足が冷えています。脾、肝の虚が血虚を引き起こし長期にわたる月経不順や睡眠障害を引き起こしています。肝気の疏泄障害により情志が伸びやかさを失っており、さらに脾の障害により思慮過度となって気鬱となり鬱病を発症する基礎的な条件を形作っていったようです。さらに7年前の環境の変化によるストレスが心陽の虚損を引き起こして状況が悪化しています。呼吸の浅さ、声の細さ、胸のふさがり、神明の暗い感じは心陽虚による宗気不足から来ると思われます。

 心虚陽虚証とみて、さらに六十九難を適応して心肝と補う治療を選択しました。心の陽気が補われたことで宗気が回り出し、胸のふさがりや肩首の緊張が緩解し、睡眠の改善にもつながったようです。また同時に肝を補ったことで血虚の状態も改善し体幹部のアトピーも改善していきました。陽経は膀胱経を使う事も多いのですが、脈状の改善が確認できれば三焦経を用いることがあります。膀胱経は心包経の陽気を下焦に導く経脈であり三焦経は心包の陽気を直接四肢に巡らせる働きがあるようです。

 第7診以降は栄火穴を用いました。心陽虚証に栄火穴が適応する場合があると感じます。

第10診の後1年ぶりの月経があった事に関しては証を脾虚陽虚証に変えた事も良かったとは思いますが、それまでの10回の治療で肝の陽気が充分に補充されていたことも大きかっただろうと思っています。

 この方の場合はまだ鬱的精神状態や体のだるさが本人が希望するほどには改善していないのは長期にわたる慢性病であること、毎日仕事をしている事、薬物をやめ切れていないこと等が関係しているかと思います。今後は季節も次第に暖かくなること、顔面部のアトピーが改善が遅れていること、脈が次第に数になりつつある事などから考えて、熱に対処する治療へ移行していく可能性があると考えています。

 こうした長期にわたる慢性病のプロセスの中では大抵の場合はまず肝腎脾の虚損があり

その後に心肺の虚損が加わることが多いかと思います。

後で述べる相火の理論から言えば五臓の陽気の真の源は相火である心包にあり、もしも心陽虚の兆候があればまず心陽を補うことによって脾肝腎の陽気を効果的に補う事ができる局面があると考えています。

 

6.心の治療雑感

①心の瀉法が肝熱に対しても有効であるか

②季節性

「秋に乗ずれば則ち肺先ず邪を受け、春に乗ずれば則ち肝先ずこれを受け、夏に乗ずれば則ち心先ずこれを受け、至陰に乗ずれば則ち脾先ずこれを受け、冬に乗ずれば則ち腎先ずこれを受く。」(素問・咳論)

③陰虚との関係

心実証の多くは病理の基礎として肝腎の陰虚を持っている場合が多いものです。

④相火論から見た心の治療

 

⑤経脈の流注の方向。

「黄帝岐伯に問いて曰く、余願わくは聞かん、・・・脈の屈折、出入の 処、焉《いず》くに至りて出で、焉《いづ》くに至りて止まり、・・・
岐伯曰く・・・手の太陰の脈、大指の端より出で、 内に屈して白肉際《はくにくさい》を循り、本節の後の大淵に至り、留《なが》れて以て澹《たん》として、・・・内に屈して臑陰を上行し、腋下に入り、内に屈して肺に走る。・・・」(霊枢・邪客編)

「手の太陰肺経の本は寸口の太淵穴にあり、標は腋の内部の動脈にあり、腋の下三寸の天府穴にあります。手の少陰心経の本は手の上の鋭骨の端の神門穴にあり、標は背中の心兪穴にあります。手の厥陰心包経の本は手の上の両筋の間二寸の内関穴にあり、標は腋の下三寸の天池穴にあります。」(霊枢・衛気篇)

「以上の二節は、三陰三陽の経脈が、みな四肢の末端から起こり、それぞれ頭・胸・腹の各部に終結することを述べている。これは、十二経脈の起点が、四肢の末端にあり、それぞれ頭部・体幹・内臓に向って循行することを説明している。そこで十二経脈の根結学説は、十二経脈の起点終点と循行の方向を研究する上で、参考にする価値がある。」(霊枢・根結篇の解説:東洋学術)

 

一、馬王堆の医薬帛書(ばくしょ)                                    

(二) 『十一脈灸経』

・・・『足背十一脈灸経』という名称については、「足臂」の二文字を解釈することによって理解できる。つまり「足」は下肢の六本の経脈を表わし、「臂」は上肢の五本の経脈を表わしているのである。それらの経脈の配列の順序は、まず足から始まって、次に手におよぶとされ、経脈の循行ルートは、四肢末端より胸腹部または頭・顔面部へ、というのが基本になっている。

一方、『陰陽十一脈灸経』にも十一本の経脈についての記載があり、・・・・それぞれの脈の循行ルートについても、一応の原則にのっとり、全身を周る九本の経脈はすべて四肢から体幹部へと走行するものとし、肩脈と足の少陰脈はこの反対に、頭部あるいは少腹部から四肢末端へ向って走行するものとしている。(「中国医学の歴史」東洋学術)

参考図書

・素問(東洋学術出版)

・霊枢(東洋学術出版)

・新版漢方鍼医基礎講座(漢方鍼医会)

・古典の学び方:池田政一

・新編・中医学基礎編:張ロウ英(源草社)

・中医臨床・108号・115号・116号・129号(東洋学術出版)

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2.『鍼灸聚英』に見る心の病症と配穴         研究部 隅田真徳

昨年「心虚証の研究」を発表以来、個人的にも多くの反響を頂きました。そのほとんどが肯定的な反応であった事に意を強くしています。

今回はさらに心の病証と配穴に関するスタンダードな資料を皆で読むことで、漢方はり治療における心の治療のさらなる深化に貢献したいと思っています。

まずテキスト編纂事業の課程でこの問題に関する認識の変化がありました。先の発表では経絡治療草創期の先生方が「心に虚なし」と唱えたきっかけは彼ら自身が原典、特に『霊枢』邪客編の文章を読み解くことで得た結論であろう、としました。しかし、どうやらそうではなく、そもそも日本漢方のある流派の中に元々「心に虚なし」という学説があり、彼らが漢方医学をそうした漢方医から学んだ際に教えられたことだったのではないか、と思うようになりました。といいますのはテキスト執筆のために、素因に関する資料を当たっているときに気づいたのですが、日本漢方系統の先生の書かれている素因論の中には、五臓の中で心の体質のみを省いて書いている場合があるのです。つまり肺、脾、肝、腎の4つの体質に分類して終わっているのです。

五臓の中で心のみを弁証と治療の対象から外す、という思想は薬方の方では意外と長い歴史を持つものなのかもしれません。伝え聞くところによると、当時の中心人物の一人、竹山晋一郎氏が病を得たときに漢方医の森道伯氏の治療によって治癒したことをきっかけとして、同氏に漢方理論を師事した、といわれているようですので、もしかするとそのあたりがこの説の出所であるかもしれません。

ところで『鍼灸聚英』です。この本は1529年に高武によって書かれた誠灸の専門書です。中国ではこの時期相次いでそれまでの誠灸の書をまとめた同類の著作の発表が続きました。もっとも有名なのは『鍼灸大成』(1 601) であり、中国ではこの書がこの時代の書籍の集大成とされています。しかし、日本にあってはむしろ『鍼灸聚英』の方が重視されてきた歴史があり、江戸時代においては誠灸医必読の書として扱いを受けていたようです。

数年前、私はある書籍にて岡田明三氏が「私の父達は経絡治療の創設期に『鍼灸聚英』を読んでその配穴を学んだ」と語っているのを読みました。岡田先生の父上である岡田明祐氏は弥生会にも属していた、正に経絡治療草創期のメンバーであると言える方です。こうした先生方が昭和初期に鏑灸処方の基礎を学ぶべく、「まず『鍼灸聚英』を読むべし」となったのはそういうわけで、ごく自然な選択であったことと思います。この本を読むことで五臓の生理病理は無論のこと、歴代の誠灸医がどのような病気を扱い、どのような処方を行ってきたかが理解できるようになっています。しかし、先に述べたように彼らが漢方医によって既に「心に虚なし」の理論を教えられていたとすれば、心の病に関する記述に対してはそのような先入観があって、その真意を十分に汲み取らなかった可能性もあります。そのようなわけで、今本会が心の病の治療を再構築するに当たり、先ず会員一同にて先入観を捨てた目でこの『鍼灸聚英』の心に関する記述を改めて読んでみる事は、今後の研究のために価値あることだと思います。

尚、今回お配りしたテキストの日本語訳は「北京堂」の浅野周先生がホームページで販売されておられる文章からの抜粋です。『鍼灸聚英』 のみならず『鍼灸大成』の日本語訳も販売されておりますので、皆様も是非購読し一読されることを強くお薦めします。

 

《発表》

①心は熱と結び付けられています。それは、各種の熱病のことです。特に、「瘧」という病気の名前が何度も出てきます。「瘧」というのは、日本語では「おこり」といいます。正確には、マラリアのことだと言われています。あるいは、マラリア様の伝染性の熱病を指します。伝染性の熱病に対する処方は、古くから漢方医学の重要な部分であったと思います。その熱病に対して「心、心包」の配穴が重要な意味を持っていたことが分かります。例えば、『通玄指要賦』では、「マラリアで悪寒発熱したら、問使に頼って救護する。期門は、胸が血で膨らむものを治せる。労宮は、幅吐して心寵部の痛むものを治す。疑うなかれ。さらに心胸病には、手掌後ろの大陵を求める。」この中でも4つのうち3つが、「心、心包」のツボで処置されています。

 マラリアというと野口英世の話があるように、アフリカにあるということは知っていました。また、戦時中に沖縄の離れ小島で流行ったことも知っていましたが、中国でもあったのか疑問でした。ましてや、日本でもあったのかと疑問に思いました。しかし、日本でも流行した時期があったようです。現在、放送されている大河ドラマの平清盛も最後は「瘧」で死にます。また、後白河法皇も「瘧」で死にます。マラリアは、最近まで日本の本土でも普通に見られた病気でした。マラリアが最後に発生したのは1964年です。この流行が、本土における最後の発見と言われています。ですから、遠い国の病気ではなくて、マラリア原虫という病原菌は、日本の本土にも普通にいたということです。このような、マラリアの熱病やそれ以外のあらゆる熱病に「心、心包」は広く使われていたということが分かります。これらのことから、古来の鍼灸が「心、心包」に求めた主な作用は清熱作用です。あるいは、熱を下に降ろす作用と言って良いかと思います。

 

②心は君主の官であり精神の異常、神経症状に異常が出ます。例えば、発狂、急に声が出なくなりしゃべられない、真正の痴呆、急に気が狂う、走り回る、発狂したら高いところへ登り歌を歌い、服を脱ぎ棄てて走る、等々色々な精神症状があります。心は神を主るとありますから、心が乱れることは精神が乱れることです。『肘後歌』では、「幽霊が見えているかのように意味不明なことを喋って、寝汗をかけば、間使へ鍼してスッキリする」とあります。また『百症賦』では「間使は、声が出ずに口ごもり、言葉が停止して遅いものを治す。」とあります。このような、重篤な精神の異常に「心、心包」が使われていたということです。

③心が発病すると憂欝となります。心の感情は喜びです。喜びは心を傷つけ、恐れは喜びに勝ちます。とにかく、喜びや恐れや悲しみといった感情の不正常と「心、心包」は結び付けられています。例えば、うつ病、操うつ、パニック障害のような発作的なものもあります。心は、虚しても実しても異常が精神に出ます。感情のケアは代替医学へのニーズが高いので、古来の鍼灸からそのような要請に応えてきたということは、現代の鍼灸にとっても心強いものだと感じます。

④心というのは、当然、心臓のことですから、現代医学的にみると循環器のことです。ですから、心痛や心臓がドキドキするといった一連の心臓の症状は、昔から「心、心包」と結び付けられていたことが分かります。

⑤呼吸器の異常と「心、心包」の関係が、調べてみて一番意外でした。心経の流注の項では、「心系には二つある。一つは肺に上がって通じ、肺の両葉間に入る心系。もう一つは、肺葉から下がり、後ろへ屈曲し、背骨の裏の細絡と繋がって、脊髄を貫き、腎と通じる心系。」とあります。これは、浅野先生の解説によると肺動脈であると説明されています。解剖学でも、非常に太い血管が肺と心臓に繋がっています。また、もう少し細い肺静脈も繋がっています。古代の人たちも解剖をして、そのような心と肺が一体になっていることを調べたわけです。ですから、肺が熱を持てば心に響いていくし、心に熱を持っと肺に伝わってくるというわけです。したがって、肺経のツボといっしょに「心、心包」のツボも使われているわけです。

 

《質疑応答》

司会(野中) それでは、みなさんの話し合いではどのような話し合いがされたのでしょうか。質問や話し合いの内容を紹介していただけるグループは、サボーターの挙手によりお知らせください。

6班:出血症状というのは、心との病理関係ではどのような考察をされますか。

隅田:私の考えは、やはり熱との関連性を考えます。熱が入ると出血しやすい傾向にあります。鼻血や吐血であれば、肺を中心とした呼吸器系に熱波及していると捉え、吐血でれば胃に熱を持ち過ぎていると捉えることができます。さらに、婦人科の出血や大小便の出血も腸以下に熱が波及していると捉えます。江戸時代の日本の本では、「心、心包」はほとんど使われていません。日本の誠灸師が「心、心包」を使わなくなったのは、随分長いのではないかという印象を受けます。それでも、出血症状に対しては「心、心包」のツボが羅列されています。例えば『鍼灸重宝記』でもその傾向があります。「心、心包」のツボは、出血症状に対して外すことの出来ないツボだったようです。

 

17班:心と肺は相剋関係にあり、相剋治療が当てはまるのではないかと話し合いをしいました。相剋調整の治療は、本会ではあまり行われておらず、本会流でいえば剛柔治療が当てはまると思いますが、隅田先生はこのことに関してどのようにお考えになられますか。

隅田:これは、五行で理解する考え方と五行を外す考え方との違いがあると思います。この呼吸器の場合は、症状に対してのツボの使い方だと思います。馬王堆漢墓から出てきた書籍は『素問』や『霊枢』以前の書籍ですが、その中に「両手を交えて膨膨喘咳す」という症状が書かれています。これは、心の是動病として書かれていました。しかし、『素問・霊枢』においては、肺の是動病として書かれています。このように、同じ文章が心から肺に移っています。このことに関して『素問・霊枢』以前は、肺と心の病理があまり分かつていなかったのではないかと言われています。しかし、現在我々が使っている心包経を呼吸器の病気に対して使っていたという単純な捉え方で良いと思います。そういった、中程度以上の呼吸器病には、積極的に使われていたという単純な捉え方で良いと思います。

 

入門部:「心と心包」がなぜあるのか。「心と心包」を使い分けるきっかけがありますか。

隅田:先ほどの馬王堆の話ですと、『素問・霊枢』以前は十一経絡しかなかったわけです。十一経絡しかなかったのを、だれかが1つ足したわけです。現在、我々が心包経として使っている経絡が、当時は心経だったわけです。そして、我々が心経として承知している経絡が、古代にはなかったのです。ですから『霊枢』の中でも、繰り返し心の原穴は「太陵」と書いてあります。これは、1970年代になって古い文書が出てきたら、古来の経絡は十一経絡しかなかったわけです。当時は、現在我々が使っている心包経が心の経だったわけです。だれかが1つ足したわけです。11を12にしたのです。11ではキリが悪いわけです。単純な医術だったところに、色々な古代思想が入ってきたわけです。陰陽理論が入ってくる。五行思想が入ってくる。八卦が入ってくる。そして、12という数字が入ってくるわけです。古来中国の中では、時間と空間を12で区切ったわけです。ですから、方向も12方向。時間も12の時間です。1年も12か月。そして、経絡も11ではキリが悪いため、だれかが12にしたわけです。そのため、最後に現在我々が承知している心経を入れたというわけです。

 

司会(新井) :心経が後から足されたわけですが、臨床では心包経を使い、心経は使いませんか。

隅田:心経は歴代の医家たちが、その後2千年にわたって使ってきているわけですから、使う意義はあると思いますが、その研究はまだ十分ではありません。ただ1つには、実際の心臓病が進行している場合に、心包経よりも心経を使った方が良い場合があります。このことに関しては意識しています。

 

司会(野中) では、次に個人的に質問やご意見のある先生がいらっしゃいましたら挙手にてお願いします。

新井:資料の中では手掌の熱ということが、特徴的に何度も出てきています。「心、心包」を使うときに、この手掌の熱と左手寸口と関上の脈状に、何か特徴的なものがありましたら考えをよろしくお願いします。

隅田:特に手掌の熱に限ることはありません。基本的な心の脈状である浮、大、散の脈であれば良いですが、大きすぎる浮、大の脈状ならば、「心、心包」を使っても良いとは思います。

 

【当日発表されなかった意見及び質疑応答】

11班:実際の治療室では、虚熱がとんで心臓病のような症状を呈することが多いように感じている。

隅田:動悸、心痛は心虚証が適応する有力な分野だと思います。しかし心の経絡は上焦の熱を下焦へ送る働きをしていますので、探せばより広く心虚証を適用できるケースを発見出来ると思います。

 

11班:資料にあげられた症状(精神、感情、循環器、呼吸器疾患など)は、心虚証として1つずつ現れるものではなく、熱があれば全部まとまって出てくると感じている。

隅田:熱がどこに由来するモノであるかを見極めるのは、必ずしも簡単ではありません。しかし、四診を用いてよく観察すればそれは可能だと思います。また、心虚証の適応は心熱だけに限っているわけではなく、上焦に漂う諸熱に対して広く適応すると思われますので、是非試みて下さい。

 

11班:心包は使えるが、心経には中々踏み込めない。心、心包の使い分けの目安について、発表以外で具体的な事例があれば是非教えてほしい。(地方組織研修会でも、臨床上でも心包を使う事はある。脾虚の時が多いが、精神、身体症状が多い時に心包を考える。身体症状が多く心身症が考えられる時など)心窩部の詰まりなどを目安にしている。新テキスト記載の是動病、所生病「心包:精神症状の記載あり。心:臓そのものの病記載のみ。精神症状記載なし。」など、精神症状の有無は心、心包の使い分け目安になるのかとの話から。)

隅田:「心、心包」の使いわけは私もまだまだ研究中で、あの際に発言した以上の情報はもっていません。私は、普通は心包経を触り、次いで心経を触ります。やはり、心包経の方が使い勝手が良いかな、と感じている程度です。精神症状の有無は気を付けてみてみます。その他、何か発見があればお知らせ下さい。宜しくお願い致します。

 

二木:心虚証という治療法があってもいいと、確かに思う。しかし、今までの経絡治療においては、当日の説明では江戸時代から心虚証は避けられていたのに、脾虚証として心包経を一緒に用いるなどして治療はされていたことになります。対処できていなければ、その時代からも心虚証は採用せざるを得なかったはずです。それを今、心虚証として取り上げる意味をもう一度説明してください。

隅田:我々は古典治療を標榜しているとはいえ、実際には常に過去の治療を見直し、時代に即した新しい形に鍼灸をリフォームし続けていると認識しています。不足を補い、誤りを正すのに何も遠慮することはありません。もしも、過去の治療を改善する必要がないというならば、鍉鍼のみによる本治法、気血津液論による弁証、森本鍉鍼も手にすることはなかったのではないでしょうか。また、誤解もありそうです。江戸時代に心、心包の経穴はあまり使われていないようだ云々というのは、私が『鍼灸聚英』と『鍼灸重宝記』を読み比べた時にそう感じた、或いは「何だかそんな気がする」という程度のことです。本当のところは全く分かりません。そう、ご承知下さい。しかし、例えどうであれ『鍼灸聚英』を読んで感じて頂けたかと思いますが、過去数千年の鍼灸家達は、心、心包の経穴を実に様々な病に使用してきました。それが、今回の発表で一番大切なことかとも思います。本会の治療に心虚証を取り入れることは、決して過去を否定することではなく、むしろ大きな意味での古典鍼灸の大道への回帰となるのではないか、と捉えています。そして、私が理事会で「心虚証を公式に認めて貰いたい」といったのは、そうすることで心虚証の研究が進み、より良い治療体型の完成が近づくと考えたからですし、理事の皆さんからもこれといった反対がでなかったのは、諸先生方も同じ気持ちだったからではないか、と思っています。

 

田村:隅田先生は臨床的に心虚証を証明され、臨床で、使っていらっしゃると思うのですが、そこに至るまでのこと、「心虚証」という考えに至った経緯を教えていただきたい。

隅田:そもそもは、本治法の際、主証としていきなり「心、心包」を触るということは以前から一部の会員の中で行われていました。私も以前にある先生から治療していただいたときに心包から腎と行き、とても結果が良かったことがあり、それ以来、強く関心を持ち実践してきました。その先生によると「こういう事もあるということさー。あはははー」ということで、やはり「心に虚無し」の呪縛が強いのか、それ以上理論的には踏み込んでいないご様子でした。テキスト編成の際に、中国では「心に虚無し」いう言葉が無いこと。中国古典では心、心包の経穴を積極的に用いていること、国内の古典鍼灸家にも心虚証の存在を既に認めている人が結構いることなどが話題となり、本会も、いつもでもこのままでは良くないだろうと思い発表に至りました。昨年の発表に関しては、詳しいことは『漢方誠医30号』に掲載されておりますのでご覧下さい。

 

まとめ

治療をしていて一番多いのは、腎との絡みだと思います。池田政一先生は、心は「腎虚心実」しかないと言われていました。心独自のものよりも、やはり腎との関係だと思います。加齢とともに腎虚になり水が枯れてくると、自然と体は熱を持ちやすい状態となり、水火の交わりが出来なくなり、熱は益々高ぶった状態になります。このように、徐々に熱症状になります。今までの本会の理解だと、「これは陰虚である。虚熱が上がっている。」と判断します。そして、腎をどうするのか、肝血を潤すのかというような判断をしていたと思います。しかし、色々な文献を読んでみると、この方法だと片手落ちの印象があります。熱が上がって来ているという時は、その熱に対処する必要があります。清熱をするという直接的な対応も必要だと思います。薬方の方では、そのような薬は非常に多くあります。鍼灸でそれを行うならば、心を瀉す方法です。ですから、今まで心熱ということが分かつていても、それは腎水を補えば自然と治まるということで、腎で心をコントロールしていました。しかし、心を瀉すことで、その熱が腎陽を補っているように腎をしっかりさせていきます。そして、加齢とともに衰えてきた腎の陽気も活発になると思います。その結果、腎水も補われるということです。そのカギは、「心は腎を支配する」ということです。原文

では「心主腎」とあります。この考え方が、実際の臨床の中では多いと思います。病証としては、腰が痛い、足が冷える、頻尿などに対しては腎の弱りである。一方で胸に熱を持っていて、眠りが浅い、頭痛などのように熱の症状を現している。この熱というのは、冷えに比べて「これは心の熱である」とか「この熱は肺の熱である」とか判断がしにくいものです。このような症状は、どこの熱でも現れる症状だからです。

熱は上に上がってくれば熱なのです。どこから上がってくるかとか、関係なく悪さをするわけです。非常に分かりにくいですが、足が冷える症状や腰が痛いといった腎虚の症状に対して、心から手を付けたり、心だけに手を付けた方が良い場合が、非常に多く隠れていたと思います。私が調べた結果では、この「心主腎」は『素問.霊枢.十四経発揮』にも書かれていないもので、私の臨床の中での実感として特徴的なものだったということを強調しておきます。

 

 

 

 

 

1.「心虚証の研究」  
                                            研究部  隅田真徳


1.「心に虚無し」の問題の沿革

日本の経絡治療の世界ではその黎明期から「心に虚無し」という事が言われ、心虚証という証は無いという事になっています。「心が虚すると、神がなくなるから死んでしまう。だから心虚証はないのだ。」といった主張は経絡治療家なら誰もが耳にしたことがあると思います。 
こうした主張は霊枢の一連の心に関する記述、なかでも本輸篇の五輸穴に関わる部分と邪客編の心・心包の病理の部分に対する解釈の反映であるといわれています。そこでまずその記述を振り返ってみます。

まず本輸篇です。ここでは各経絡の五井穴を順に羅列して紹介しているのですが、心経の五輸穴の記載のところになぜか心包経の経穴が記されているのです。
「心は中衝より出づ。中衝は、手の中指の端なり。井木と為す。労宮に溜る。労宮は、掌中中指本節の内間なり。栄と為す。大陵に注ぐ。大陵は、掌後両骨の間の下に方《あた》る者なり。兪と為す。間使に行る。間使の道は、両筋の間、三寸の中なり。過あれば則ち至り、過なければ則ち止む。経と為す。曲沢に入る。曲沢は、肘の内廉の下、陥なる者の中なり。屈してこれを得。合と為す。手の少陰なり。」 

 「類経」(張介賓)の中ではこの篇の解釈として「これら五穴は皆厥陰心包に属する穴である。心包にあるのに心の兪穴としているのは心包絡は心が司っている脈だからである。邪客編にある”手の少陰経脈だけには輸穴がない”は正にこのことを指して言っているのである。」としています。

 ではその邪客篇をみてみましょう。ここではどうして少陰心経だけ五兪穴がないのか?という質問に続いて問答が成されています。
「黄帝曰く、手の少陰の脈独り兪なきは、なんぞや。岐伯曰く、少陰は、心脈なり。心なる者は、五蔵六府の大主なり、精神の舎(やど)る所なり。其の蔵堅固にして、邪容(…い)る能 わざるなり。これに容(い)れば則ち心傷(…やぶ)れ、心傷るれば則ち神去り、神去れば則ち死す。故に諸邪の心に在る者は、皆心の包絡に在り。包絡なる者は、心主の脈なり。故に独り兪なし。」
「黄帝曰く、少陰独り兪なきは、病まざるか。岐伯曰く、其の外経は病めども蔵は病まず、故に独り其の経を掌後鋭骨の端に取る。・・・・故に本兪なる者は、皆其の気の虚実・疾徐に因りて以てこれを取る。是れ衝に因りて写し、衰に因りて補うと謂う。」

「類経」(張介賓)によれば「手少陰とは心経のことである。手厥陰とは心包経のことである。経脈は二つに分かれているといえども、その蔵は元より一つである。おおよそ病を治すときは心包絡の兪穴を用いる事で心を治療することができる。故に少陰心経のみ独り兪穴がないのである。」さらに「おおよそ臓腑経脈は臓と脈からなる。臓腑は内側にあり、経脈は外を巡る。心臓は堅固に内にあって邪が容易に犯すことができないが、経脈の方は外にあるので病を得ないというわけにはいかないのである。」
と解釈しています。心と心包の関係、心の特殊な性質に関する説明はおおむね歴代の医家の解釈を代表するものではないかと思われます。

 本会顧問の池田政一先生の「霊枢ハンドブック」の中では、「(邪客篇で)黄帝が心経に輸穴がないのはなぜか、と質問しています。「本輸」篇で述べられていた五輸穴はすべて心包経に属する経穴でした。岐伯は次のような説明をしています。『心は五蔵六府の大主であり、精と神の宿るところである。その蔵は堅固で、病邪は絶対侵入できない。もし病邪が侵入した場合は死ぬ。したがって、心臓の病症をあらわしていても、それはすべて心包経が病んでいるのであって、心臓が悪いのではない。ただし、心の経脈だけが病むことがある。この時は、病症によって神門穴を補瀉すればよい。』以上のような理由で、心を治療する五輸穴は必要がないのです。 ところが、心が病邪の侵入を許さない、ということは、心の精気の虚はない、ということになります。古典医学では、臓の精気の虚があるから発病すると考えます。したがって、心虚証による発病はないのです。経絡治療家が心虚証を言わないのはこのためです。」となっています。

まとめてみます。
(1)霊枢本輸篇では少陰心経の五輸穴として厥陰心包経の穴名があげられている。
(2)霊枢邪客篇ではなぜ少陰心経だけ五輸穴の配当がないのか、と言う質問に対して、心臓は邪が入りにくい場所である、もしも心臓に邪が入ればそれは死ぬときである。
心の経脈は病むことがあるが、蔵は病むことがない。邪が心にあるように見えるのは実は心包が病んでいるのであるから、そのときは神門穴を使い、又心包経を使って治療するように、と書いてある。古来この文章は上記本輸篇の文章に対する回答であると解釈されてきた。
(3)日本の初期経絡治療家達は、これらの記述を読み、特に「其の蔵堅固にして、邪容(…い)る能 わざるなり。・・・・」の下りをもって「心に虚なし」と解釈し、心虚証を採用しなくなった。
 

2.反証と疑問

 同じ文章を読んでも皆が同じ解釈をするわけではありません。まして医学古典の解釈は古来多様であり、経絡治療界の解釈が古典医学の世界で必ずしも常識となっている訳ではないようです。

・まず古典の他の部分を読んでみるとどうでしょうか?
「霊枢・本神篇」には「心は脈を蔵し、脈は神を舎す。心気虚すれば則ち悲しみ、実すれば則ち笑いて休《や》まず、」とありますから、此に従えば、「心気虚」の存在はみとめられことになりますし、その中身もすぐに生き死にに直結する訳でもなさそうです。

 次に難経です。難経は言うまでもなく、陰陽五行論に基づいた鍼灸治療の手引き書ですが、読んで気がつくことは、邪の変動や治療パターンの説明の際、心を例にとって説明していることが多いということです。

《十の難》一脉十変。「十の難に曰く、一脉十変をな為すは何の謂ぞや。~仮令ば(たとえば)、心脉急甚なる者は肝邪、心を干(オカ)すなり。心脉微急なる者は胆邪、小腸を干すなり。心脉大甚なる者は心邪、自ら心を干すなり・・・・」

その他四十九,五十,五十三,七十九難に同様の用い方が見られます。
一体に難経において五臓を羅列すら際多くは「肝心脾肺腎」が用いられています。(十六,三十四,四十,五十六、七十四難)
例外的に肺心脾肝腎(十四難)、肺肝脾心腎(三十七難)、肺心肝脾腎少陰(六十六難)と言う順番もあります。
いずれにしても心が一番最初にやってくるわけではありません。
そうであるなら、邪の伝変や治療パターンの説明に際して必ずと言っていいほどにわざわざ心を持ってくると言うことは何らかの恣意的なものがあるのではないでしょうか?それが何であるかは分かりませんが、少なくともこうした記述の仕方を見ていると、古代の鍼灸家達が心のみを治療の対象から外すような解釈をしていたとは考えにくいように思えます。

・翻って中医学の教科書を見るとどうでしょうか?中医学の教科書は1960年代以後まとめられたものであるとはいえ、その中身は中国医学2000年の歴史を総括したものであり、主要な歴代医家の意見を俯瞰的に眺めることができると意味では大変便利なものです。
 東洋学術出版の「中医学の基礎」では心病弁証の項で九つもの弁証があげられています。
(1)心気虚証 (2)心陽虚証 (3)心陽暴脱証 (4)心血虚証 (5)心陰虚証 (6)心火こう盛 (7)心血悪阻証 (8)痰迷心竅証 (9)痰心憂心証
ちなみに九つと言う弁証の数は五臓の中で最も多いものです。

臓腑相関弁証(多臓器との関連病症)の項では4つ。
(1)心腎不交証 (2)心脾両虚証 (3)心腎陽虚証 (4)心肺虚証 

更に中医学の治療を述べた本では心病弁証は循環器疾患で広く使われている他に、うつ病やより重度の精神科疾患、不眠症、難聴等のストレス性の病気にも使われています。
こうしてみると古代から近世に至る歴代医家達も心を他の四臓と同じように弁証と治療の対象として扱ってきたことがわかります。

・では昭和以降の経絡治療家はどうでしょうか?全員が「心に虚無し」を主張し続けてきたのでしょうか?よく見ると、そうでもないようです。

本間祥白先生の『鍼灸病証学』41頁 「心病証 邪、心に在れば心痛を病む……腎、之を心病に伝え……心熱の者は、……」
「虚実 心は脈を蔵す、脈は神を舎す、心気虚すれば悲しみ、実すれば笑って休まず。心実すれば胸中痛み、…… 心虚すれば胸腹大、」

岡部素道先生の『鍼灸経絡治療』(昭和58年刊)
「それから火経(心経)が虚している場合は、体全体が虚すということになるわけです。五臓の中で火経だけを今まで離して考えているわけです。つまり火の虚証、火の実証は立てないことになっています。ところが火経の虚というのがあるわけで、火が虚すと健忘症とか不眠症というのが出てきます。だから火経を使わないという今までのやり方は、今後考えていかなければならないとおもいす。火経の代わりに心包経を使うなどというのはナンセンスです。現に経絡があり、心経にはちゃんと反応点が出ているのですから。少海、神門とかあるいはげき穴です。げき穴はずれていることが多く、少海穴の下三寸くらいです。
 火経の実証というのほはとんどぶつかりませんが、虚証はあるわけです。従来、この問題は避ける傾向がありましたが、肝と心の虚というのは現実にあるし、今後は作るべきだとおもいます。心虚証に木経を使うか使わないかの判断は、肝経も虚していれば使います。それではどの穴を使うかというと、肝経は土穴の太衝あたりがいい。行間は瀉になりやすい。心経は土穴の神門です。心経の反応点の出ているところも上手に使います。
もう一つ面白いのは肝虚証のときにどうしても心包経に出ることです。それがやはり三陰三陽の考えで、厥陰経が上下通じていると考えます、太陰脾経と太陰肺経が胸でつながっているように。」「心虚証のときは、心経の少府と、肝経の行間を補う。」「八木下勝之助氏・・・肺が虚していれば肺を補い、心が虚していれば心を補い・・・神経衰弱の時は肺経と心経の虚がしている場合が多いから、肺経の太淵、尺沢、心経の神門を補う・・」

・昨年会で講演をお願いした日本内経学会の佐合先生から興味深いお話を伺いました。
20世紀後半に中国河南省の「馬王堆漢墓」から出土した一連の古医書には経脈は11本しか書かれていませんでした。無かった経脈は「手厥陰脈」でした。こうしたことから内経編集以前の時代には現在の「手厥陰心包経」が「手少陰心経」として認識されていたのであり、本輸篇に記述されていること、即ち「心は中衝より出づ~」以下の記述は当時の認識をそのまま文章にしたものに過ぎない。心と心包の関係等は十二経そろったあとの後世の人間が書き足したものであろう。そういう認識が日中の古典研究者の間ではすでに共通のものであるそうです。確かに説得力の有る説です。そうであるとすれば昭和の経絡治療家が心虚証否定のよりどころとしてきた、霊枢・邪客編の文章は又別の角度から解釈する必要がある様に思えます。
※ちなみに難経六十六難でも「心の原は太陵に出で」、霊枢九針十二原篇にも「陽中の太陽、心なり。其の原は大陵に出づ。」となっています。このように原典の中では繰り返し心の経穴と称して現在の心包経の穴名が挙げられているのです。歴代の医家は概ねこれは古代人の書き損じであろうと解釈していたようですが、こうした文章はすべて十二経絡説以前のより古い時代の文章がそのまま残っているものである、と解釈されるようになったというわけです。


・私は以前から「心が虚すると、神がなくなるから死んでしまう。従って、心虚はないのだ。」と言う論法は少し乱暴ではないかと感じていました。脾が虚したら直ちに後天の元気を得られなくなる、腎が虚したら先天の元気が尽きてしまう・・・という言い方はしません。現に他の臓器と同じように心臓も又病気になります。確かに急性の発作で瞬く間に死にいたるケースもありますが、慢性病として進行する場合は病気になったからといってすぐに死んでしまうわけではありません。また鍼灸や漢方薬が心臓の病気に対して無効であるという事もないわけです。慢性の心臓疾患の過程は時に数十年に及ぶプロセスを持ちますが、日々の臨床を通じてその過程の様々な段階においてこうした伝統医学が役に立つ場面は多いと感じています。
 更に言えば実質器官の「心臓の虚絶」と経絡の「心経の虚」とをきちんと区別して論じることなく、一緒くたにして否定してしまっているような印象があります。邪客篇にも類経にも「(心の)経脈の方は外にあるので病を得ないというわけにはいかない」とあり、その際には心包経を運用するように書かれているわけですが、現状ではそうした記述に十分答えるような研究が行われてきたとは言えないように思います。心気の働きは神志を司るものとして心身に大きな影響を与えています。心経の虚は心気の働きを阻害して、各種の神経症状を引き起こすと考えられますが、今のままではそうした病気の治療に対する鍼灸治療の適応力を狭めてしまっている可能性もあるのではないでしょうか?
 時に、経絡治療は心を治療していないわけではないという主張を聞きます。脾虚証を六十九難に従って治療する際、心包経を用いているではないかというわけです。このパターンでは心の陽気を補うことで脾の補陽を補助することになるわけですが、これは心の病の類型の一つを扱っているにすぎません。その他多くの類型をも包含するものには成らない様に思えます。心を主証として扱う治療法を研究することによってこそ、蔵象論や気血津液論から必然的に導き出される心の病の多様な類型に対応できるようになるのではないかと考えます。

・以上のように見ていくと、昭和以来の経絡治療の心虚証に対する考え方は、孤独な解釈である可能性が高く、再検討の余地が有るのではないかと考える次第です。私は本会も公式に「心虚証」の存在を認め心、心包もほかの四蔵と同じように、弁証と治療の対象にするべきであるという立場からこの問題を喚起すべく、心・心包の病症と治療に関する考えをまとめ、諸先生方のご意見、ご批判を頂きたいと考えるものであります。



3.心・心包の病証と治療

 心には「血脈を主る」「神志を司る」等の生理作用があります。血液を推動して脈中に運行させ、身体各部を滋養することは正に心臓の生理作用を代表するものです。血脈を主る機能は心気の作用により行われていますので、心気が旺盛であれば血液は豊かに循環し、血中の栄養物質は各臓腑・組織器官に運ばれます。逆に心気が虚弱になれば血液の推動が弱まるために、各種の循環器障害の症状を引き起こす事になります。薬方の世界でも心の治療と弁証の多くが循環器病を対象としているのはこういった事情によるものです。
 とはいえ、心の治療が心臓を中心とした循環器系の治療に限定されて用いられるという訳ではありません。心気の神志を司る機能とは、即ち精神を明晰で健全な状態に保つ働きのことです。難経四十九難に「憂愁思慮(ユウシュウシリョ)すれば心を傷る」、霊枢邪気臓腑病形論篇に「愁憂恐懼すれば則ち心を傷る。」とあるように、憂いや恐れで心労が募ると心気が弱まり、神志を正常に保つことができなくなります。その結果、精神抑鬱、心情不活発となり、不眠、多夢、健忘といった各種の神経症状の出現をみることになります。そういった意味で心気の虚が引き起こす病は意外なほどに裾野が広く、現代的なストレス病に対しても広く適応できる治療になる可能性があると言うことができます。
 

(1)心虚陽虚証
①病理
心虚陽虚とは生来の体質虚弱、老齢や長期間に亘る慢性病といった土台に加えて憂愁思慮等の内傷が加わって心の精気が虚損し、冷えを伴った心気の機能低下の症状が出現したものです。心気が不足して胸中の宗気の推動機能が低下するために呼吸が浅く、胸悶、息切れ、不整脈があり、時に活動時に悪化します。また神志を司る働きが盛んではないため思考力、判断力の低下、悲しみやすい、浅眠等も出現します。 心の病理で特徴的なのは外邪の影響によるものがほとんど無いことです。霊枢・邪客篇に「心なる者は、五蔵六府の大主なり、精神の舎《やど》る所なり。其の蔵堅固にして、邪容《…い》る能わざるなり。」とある通りです。その為病因に関しては素因と内因のみを考慮するのが一般的です。他の臓器からの病の伝変はあります。久病や病後の養生が良くないと多汗、嘔吐、下痢、出血などにより気血が損傷し、心陽が犯される事によるものです。

脉診:細弱、血脈が障害すれば細ショクとなり、時に結脈となります。左手寸口虚。
腹診:腹部全体がざらつき、冷感があり、自汗が見られます。心窩部心の見所は軟弱です。

②治療例

患者 32才 女性
初診 平成20年7月
主訴 体質不良 うつ病
 独身の会社員。半年ほど前に可愛がっていた犬が病死。それからは悲しくて悲しくてたまらなくなってしまったという。いつも犬の写真を肌身離さず持っており、それを見せては話している内に涙ぐんでしまう。夜の睡眠も浅くなり、朝になっても疲れがとれない。神経内科ではペットロスからくるうつ病と言われ、安定剤と睡眠導入剤が出ているが、薬を飲むと胃が痛くなるとのことで、あまりまじめに服薬していない。仕事には行っているようだが、上司にも心配されているらしい。今まで大きな病気はしていないが、元来虚弱体質で風邪を引きやすく、小学校の頃から欠席が多いとのこと。身長157センチで体重42キロとかなり痩せている。顔色も血色が無く、話す声もボソボソとか細く力がない。暑くなくてもいつも汗ばんでいる。泣いていると心臓のあたりが痛くなるという。母親が心臓病でバルーンの治療を受けており、自分も心臓が悪いのではないかと疑うが、検査してもまだ異常はないようである。

脈診:細弱 左手寸口虚
腹診:表面ざらつきつや無く、冷たい。心窩部力なく、汗っぽい。

病理考察:素因が虚弱にして心気が虚しやすい。愛犬の死をきっかけに神志の安寧を失い、心気が虚したため悲しみが心を満たし、その状態から容易に脱することができない。神志の不安定で睡眠も浅くなり疲労がとれない。元来心血の巡りが悪いので脾胃の造血も盛んではなく、肌肉が痩せ、血色が悪い。心血の巡りの悪さは肺の宣発粛降にも影響が及ぶので、呼吸が浅く、声に力がない。心の病は汗に出るので常に自汗している。母親が心臓を患っていることから見て、彼女もこのまま経過すればいずれそうした疾病を発病する可能性があると思われる。
 治療は心気を強めることを目標に、心包経に衛気の補法を行います。心気が強められれば、神志の安寧が回復し、睡眠が改善し、疲労がとれ、悲嘆から立ち直る大きな助けになると考えます。

本治法:治療は霊枢の一連の記述に従い、厥陰心包経を使います。選穴は原穴太陵に衛気の補法。原穴はその蔵の精気を補うのに適した穴です。更に剛柔関係から膀胱経の合土穴委中に衛気の補法。反応があれば委中の代わりに委陽穴を取穴しても良い。委陽穴は三焦経の下合穴なので、三焦は心包と表裏関係にあることから考えても有意な取穴となる。
標治法:肩背に対しては深鍼はしない。軽い手技で表面の気を巡らすつもりで治療を行う。心悸が気になるのであれば内関穴に施灸をして心気を補助する。また臍への知熱灸で陽気を補うと良い。話したがっている事があれば、時間の許す範囲で傾聴すること。負の感情も他者に受容されることで解消に向かう段階があることに留意したい。



 
(2)心虚陰虚証
①病理
 心虚陰虚とは生来の心臓病を持つ場合の他に、心虚陽虚の土台の上にさらに心血の不足が進み、又は心そのものを滋養するべき血が虚損した結果熱を伴った心血の滋養低下の症状が出現したものです。血が心を十分に滋養できないため、動悸、胸痛がおこります。神を養えず神明が乱れて思考の低下、不眠、多夢はより重大なものになります。血虚により脳髄を濡養できないため、眩暈、健忘といった脳の症状も起きてきます。五心煩熱、潮熱、盗汗といった陰虚熱に共通の症状はもとより、より重大な局面では人事不省、妄言、発狂もあり得ます。また熱が舌に向かえば舌先は紅くなり、口舌に瘡を生じます。
陰虚証の熱もまた、ほとんどは内部から発生したものです。まれに外感熱病の過程で熱が心包に入り(熱入心包)心熱の症状を引き起こすことがありますが、それ以外は心自らの熱の過剰か多臓器からの熱の移動によるもので有るとされています。

脈診:左手寸口浮、大、散、熱証強ければ数。
腹診:心窩部心の見所堅く結ぼれ、胸から上熱有り、しばしば小腹の冷えと対比を成す。

②治療例

患者 55歳 男性
初診 平成21年6月
主訴 めまい、不眠
 自営業の経営者、元来神経質で夜の眠りが浅い方だと言う。以前仕事上のことで経営危機があり、何日か眠れぬ夜を過ごしたあとにめまいを発症。当初はぐるぐる回るような激しいめまいがあり、当院にて治療、肝虚証にて疏泄を促し情志を伸びやかに導く数ヶ月の治療をし、好転し治療を中断した。今回は2年ぶりに来院。数ヶ月前から家庭内に問題が起こり苦悩するうちにめまいが再発した言う。今回は回転性というよりは、ふらつくようなめまい感であるという。さらによく眠れないと訴える。最初は3時間ほど眠るが、あとは1時間おきに目を覚ます。寝ているか起きているのかよく分からないがその間ひっきりなしに夢を見るので、今のは寝ていたのかと気づく様な感じで、朝起きても疲れがとれた気がしない。寝汗も多くまた喉が渇くので枕元に水を用意している。肩が凝り、頭部が重い。仕事でも細かい数字を追いかける集中力が無く、大事な用件を忘れて社員に指摘されてしまう、とこぼす。時にのぼせたように熱くなる事があり、また左胸部にズキンとした痛みが出現することがある。

脉診:全体脉状は、浮やや数。脉位では、左寸口大・散。
腹診:全体は軟弱で力なく、心窩部は堅く拒按あり。胸部に熱感強く、腹部の冷感との差が大きい。

病理考察:元々素因として心気が虚損しやすく、五志の安定が難しい。更に今回は家庭の問題から感情が乱れ、憂愁思慮の末、心気を大きく虚損し、心血の巡りが不足している。脳を滋養できないため、ふらつくようなめまいがある。更に心神を養えず神明が乱れるので、思考が集中せず、健忘、心痛をみる。心熱が高ぶるため、眠りが浅く途中覚醒も頻繁で、夢見が多い。夢の内容も多くが悲観的であり、疲れを誘う。頭重、肩こり、口渇、逆気、盗汗は陰虚証に共通した病証であるが心の病は汗に出る故で寝汗もことさら多いのです。
 治療は、心血を回復させる事を目標に、心包経に営気の手法を加えます。心血の流れが回復すれば、脳を潤し、神明を安寧に導く事ができます。心の臓器自体も潤いが回復し陰虚からくる各種の熱症状を収めることができると期待できます。

本治法:選穴は栄火穴労宮、栄火は心包の自穴にして熱を冷ます力の強い穴です。更に剛柔関係から膀胱経の栄穴通谷、乃至火穴昆侖に衛気の手法を行います。膀胱の経気が補われることで心腎の交流が活発になり、上焦の熱が冷まされて行きます。また三焦経の穴を使うことで心包に滞る熱を速やかにその表である三焦経に導く場合もあります。

標治法:下焦の督脈上の虚へ営気の手法を行い、腎水を補うことで上焦の熱を下に引きます。また虚熱による肩背部の凝りに対しては鍼数は少なめに、素早い手技で熱を散らすように処置をします。下腿下三焦の通りに沿って補鍼をすることで、全身の津液の巡りを促し、各種の熱症状の緩和を補助します。



※他臓腑との関係考察
・心肺・・心と肺にはいくつかの共通点があります。共に上焦に位置し、心は血を巡らし肺は気を巡らす要として協調しながら働いています。心気が虚弱になれば血脈の運行に支障が生じて肺気の宣発・粛降作用に影響が表れ、肺気が虚弱になれば宗気が不足し血脈の運行する力が弱くなります。また肺熱と心熱は互いに影響し合うことがありますし、両者の症状は時に見分けにくいことがあります。特に病状がさほど進んでいない段階の陽虚証では疲れやすく、呼吸が浅く、自汗しやすく、悲しみに浸りやすい等両者の状態は似通った点が有ります。薬方では心肺気虚という証があり、気を補った上で陰液を補う処方が成されます。(生脈散【医学啓源:南宋】)中医の本では呼吸器疾患の過程や、熱中症の際に勘案する弁証とされています。鍼灸治療においては心肺両者を共に補うことは考えにくく、脈状腹象などからよく見分けて治療する必要があると思います。

・心脾・・中医学の教科書には心脾両虚という証があります。心血の不足と脾気の虚弱がともに現れる状態です。多くは病後の不養生、慢性病の出血、思慮過度、飲食不節等により脾気の損傷を見た結果造血、統血の働きが衰えることが原因とされます。心悸、健忘、不眠、不正な出血を主訴とし、食欲不振、面色蒼白、下痢、便秘も見られる血虚の状態です。中医の教科書では不眠症の弁証として出てくることが多いのですが、その代表的な方剤(帰脾湯【済生方:清代】)の薬剤構成を見てみると多くは健脾、利湿を主とした脾気を高めるものが主であり、心に作用する薬は少数で、この方剤は補気によって血を生み結果的に心を養う事ができるという方意となっていることがわかります。我々の従来の治療でもこうした類型の患者像に対しては脾心包と補う六十九難型の脾虚証によって対処してきていると思われます。心悸、健忘、不眠といった心の変動による訴えが格別強い場合には先に心包を補う治療があり得るかもしれません。

・心肝・・心虚証六十九難で処理すれば木である肝をともに補うことになります。岡部素道先生も『鍼灸経絡治療』のなかで「肝と心の虚というのは現実にあるし、今後は作るべきだとおもいます。心虚証に木経を使うか使わないかの判断は、肝経も虚していれば使います。」と書いています。ネットで心虚証を検索してみると肝経を共に用いた治療例は容易に散見することができ、既に経絡治療界の一部では確立した選経となっていることが伺えます。心は血脈を司り、肝は蔵血を司ることから考えても両者を共に補う選経は理に適っており、心血を巡らせることに有意な治療であると考えられます。
 又心と肝は協調して精神・情志の活動を司ります。その為精神的要因で起こる病変では両者はしばしば相互に影響し合っています。特に心熱と肝熱は共に急躁(イライラ感)、易怒、多夢、痙攣を起こします。我々の従来の治療ではこうした類型の患者像に対しては、七十五難型肺虚肝実証にて対処してきていると思われます。

・心腎・・心陽と腎陰は上下して交流することで体内の陰陽のバランスをとっています。その為心熱による病がある時は、同時に腎水の虚がある場合が多いのです。そのため薬方の方ではこうしたタイプの不眠、神経症の場合、慢性的なものに対しては腎陰を補う事を主とした上で心熱を冷ます薬剤を付け足した方剤(天王補心丸【世医得効方:元代】知柏地黄丸【医宗金鑑:清代】)を用いますが、心熱の症状が特に強い時期には苦寒薬を主とした方剤(交泰丸【韓氏医通:明代】)で直接熱を冷まそうとします。我々の治療でも心熱に対しては多くは腎虚陰虚証の治療の基に何らかの標治法を加えることで対応してきたと思われます。しかし心熱による主訴が強力な場面ではむしろ心虚陰虚を主証とし、時には腎経への補法を配する事で効果的に心熱を去らせることができると考えます。我々が今後心虚証の治療を研究発展させるに際してもっとも注目すべきはこうした腎の陰虚を伴う心熱病の類型ではないかと思います。


※心と五志に関する考察
・心の志は喜であるとされていますが、あまり杓子定規に考えない方がよいと思います。心の志が喜であるとばかり言っていては、心を多くの心身症と結びつけることは難しくなります。古典を読むと心はしばしば憂愁思慮、恐懼といった感情とも結びつけられています。さらに霊枢・口問篇では「人の哀しみて泣涕《きゅうてい》出づるは、何の気か然らしむる。岐伯曰く、心なる者は、五蔵六府の主なり。・・・・故に悲哀愁憂すれば則ち心動き、心動けば則ち五蔵六府皆揺らぎ・・・・」とあり、また霊枢・本神篇には「心気虚すれば則ち悲しみ、実すれば則ち笑いて休《や》まず、」と悲しみと結びつけた記述も少なくないのです。心気が実すれば喜笑が止まなくなるというのは発狂に類する極端な事象を含むものであり、臨床室では見かけることが比較的少ない様に思います。一般的には心は神志を司る故に深く長期に亘る負の感情は心の精気を傷つけるものだ、と考えて良いと思いますし、そのような解釈で病理を観察することで、より広い範囲の病に心の弁証を適応することができると考えています。


4.中医学との違い
(1)中医学で心は多くの弁証を持ちますが、ここではそうした弁証のすべてを四大病形の中に落とし込むことで、簡潔に分類して論じることとします。即ち冷えと機能低下によるものを心虚陽虚証とし、熱と滋養障害によるものを心虚陰虚証と分類したうえで、その範疇の中でその他の類型に関してもできるだけ言及するようにしました。
他臓腑との関係考察では、中医の薬方を参考にして論じました。日本の鍼灸関係では心に虚無し、という事で長年心に関する臨床的な研究がなされてこなかったので、こういう類の参考とすべき文献がなかったからです。一方中国では心は外邪が入らないので、内因と他臓器との関係によって病むのだ、と捉えて研究がなされ治療に用いられてきました。その違いも垣間見ていただきたいと思います。
 
(2)中医学の教科書は1960年代の文化大革命(文革)の時期に編集されたものです。文革期には古代思想は宗教と同様に迷信として激しい批判と攻撃の対象となりました。1人1人が良き革命分子であることを証明しなければ迫害され、命を奪われる。そのような社会情勢の中での作業は編集の上にも大きな影響を与えたように思われます。
肺の弁証が事実上肺結核の病理過程をなぞった形で書かれているのと同様に、心の弁証は慢性の心臓病の過程をなぞった形で書きすすめられています。つまり西洋医学の観点から見ても矛盾のない形に書くことで、古典医学の発展と身の安全を同時に適えようとしたものであろうと思われます。中医学を参考とする際、こうした点に留意する必要があります。中医学の本を読むと、心の弁証は循環器の病気を治療するためのものか、という印象を受けるかもしれません。実際現在の中医学で心の弁証は主にそうした病に対して使われ、副次的にある種の心身症にも応用される程度である様に思われます。しかし原典を読めば気づくように古代の医家達は憂愁思慮をはじめとする感情の障害と心を積極的に結びつけて治療していた形跡があり、我々も循環器疾患以外にもそうしたストレス病、心身症に対する応用を積極的に研究していきたいものです。

(3)心は元来陽気の多い臓であるため、心病の多くは心熱によって引き起こされます。時に心熱により外感熱病の高熱の為の意識混濁や人事不省、或いは狭心症の激しい発作といった症状が引き起こされます。また痰が心竅を塞いでしまうことによっても痴呆、癲狂、突然昏倒といった病状が引き起こされ、さらに心熱と痰の両者が作用することで言語錯乱、精神異常、発狂状態といった激烈な症状が出現します。中医学の歴代の医家も苦寒薬、豁痰薬を主とした様々な方剤を作り、そうした病に対抗してきましたし、その説明に心の治療のかなりの部分が割かれる傾向があります。それらは大変興味深く、学習する価値のあるものではありますが、一方で現代の日本にあって古典医学に携わるものがそうした病気を診ることは比較的まれではないかとの認識から、今回はそうした激烈な状態に関する記述はほとんど行いませんでした。

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