横浜市中区関内の鍼灸専門院 「泉堂はり灸院」

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2017年:漢方鍼医40号巻頭言「島田隆司先生の思い出」

2018/04/14 | カテゴリー:最新情報, 横浜泉堂鍼灸院長の考えていること

 

 4月の会長講義で島田先生の話を出したら、妙に懐かしくなって色々なことを思い出した。1983年春、当時新宿にあった東洋鍼灸専門学校に入学した私は学生として漢方概論講師の島田隆司先生と出会った。島田先生の授業ではレ点と返り点が書き込まれた素問霊枢の原文が配布された。「まずは古典哲学をやる」といえばそれは上古天真論を素読する事であり、「今日は陰陽をやるぞ」といえば陰陽応象大論を素読する日であった。教室の端に座る者から順番に指名されて読んで行き、最後に島田先生が文章全体を解説した。当時は戦前の教育を受けた軍隊経験者達がようやく定年に達し始めた時期であったし、その頃の高校生にとって漢文は必修科目だったのでそのような授業が可能だったのだと思う。素読が詰まる者には年配の生徒を中心に自然と助け船が出され、それでも難しい時は島田先生が助けた。私はなるほど鍼灸学校とはこういうものかと思い学んでいたのだが、その後人に聞いてみるとこのように古典鍼灸を肯定した授業を受けられたのは非常に希で幸運な部類であったらしい。

古典鍼灸における語学学習の重要さを強調しておられた島田先生は、1984年に後の内経学会の前身ともなる「原塾」を旗揚げした。何人かのクラスメートが参加したが、平日夕方19時からでは既に高円寺で修行中の私には縁のない話であった。

その代わりというわけではないが、私は巽堂卒業後に中国の大学への留学の希望を持ち始めていた。ある日、留学に関する情報を求めて島田先生を訪ねた。先生は「ふむふむ」と聞いてから、「来週もう一度来なさい」と。何か情報を持って来て頂けるかと期待した私が次の週尋ねてみるとまたも「ふむふむ、来週もう一度」であった。肩すかしを食らった不可解な思いを抱きつつさらに次の週尋ねてみると今度は一笑しつつ「よし3度来たな、それでは教えてやろう」と言いつつ1枚の名刺を手渡してくれた。当時日本人として初めて中医大学を卒業したと話題の兵頭明先生のものであった。島田先生としてはうっかり信念不確かな者を紹介しては相手に迷惑が掛かると考えたのかと思うが、あたかも諸葛孔明の三顧の礼に習ったかのような印象的な対処であった。

 1989年巽堂を卒業後上海中医での学生生活では留学生寮の2つ隣の部屋に島田先生の一番弟子とも言うべき佐合昌美先生が住んでいた。既に40才を超えていた佐合先生は留学生仲間ではちょっと浮いた存在で、唯一「島田話し」ができる私の部屋へは良く来訪していて、色々な古典の話を随分聞かせて頂いた。ある時「今度島田先生が来るよ」と仰るので何事かと聞いてみると内経学者の日中交流の会合があり、日本側代表として上海中医へ来るという。当日ご挨拶に出て問われるままに学生生活の様子など話すと島田先生は「うんうん、なるほどね」と言いつつ上機嫌でニコニコと目を細めていた。日本の古典鍼灸を代表して中国側の一流の学者と思う存分交流できて会心の思いで満足しておられたのだろうと察せられ、当時既に還暦に近い年齢に達していたことを思うと、先生の古典に対する情熱に敬服する思いがした。(以前本会でも話題になった森立之を始めとした江戸期考証学派の水準の高い研究の成果、馬王堆漢墓からの出土品に端を発した内経における求心走行記述の問題はこうした交流の際に中国側から島田先生にもたらされたものだと後に聞いた。)1993年漢方鍼医会発足時には本会顧問にも就任し講演にも来て頂いたが、その後はお会いする機会のないままに2000年に逝去の報に接した。

先日お話した「古典は読んでも読まれるな」は島田先生からも佐合先生からも聞いた記憶がある。島田先生は丸山昌朗先生の後継者として鍼灸界の古典研究をリードした人であり、1991年に東洋学術出版社が素問の訳本を出した時にも請われて執筆を担当した。佐合先生は2007年に武田科学振興財団が文部省からの補助金を得て京都仁和寺に伝わる「黄帝内経太素」の校勘を行った際作業チームのリーダーとして働き「日本一の太素読み」と称されるに至った人である。人生をかけて高いレベルで古典通読の道を歩んだ先輩達が「古典に酔っぱらってはいけない」とお互いに戒めあっていた、というエピソードは我々古典鍼灸の学習者にとっても示唆するところが少なくないと思っている。

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