心虚証の研究・1「心に虚無し の問題の沿革」

心虚証の研究
研修部  隅田真徳

1.「心に虚無し」の問題の沿革

日本の経絡治療の世界ではその黎明期から「心に虚無し」という事が言われ、心虚証という証は無いという事になっています。「心が虚すると、神がなくなるから死んでしまう。だから心虚証はないのだ。」といった主張は経絡治療家なら誰もが耳にしたことがあると思います。
こうした主張は霊枢の一連の心に関する記述、なかでも本輸篇の五輸穴に関わる部分と邪客編の心・心包の病理の部分に対する解釈の反映であるといわれています。そこでまずその記述を振り返ってみます。

まず本輸篇です。ここでは各経絡の五井穴を順に羅列して紹介しているのですが、心経の五輸穴の記載のところになぜか心包経の経穴が記されているのです。
「心は中衝より出づ。中衝は、手の中指の端なり。井木と為す。労宮に溜る。労宮は、掌中中指本節の内間なり。栄と為す。大陵に注ぐ。大陵は、掌後両骨の間の下に方《あた》る者なり。兪と為す。間使に行る。間使の道は、両筋の間、三寸の中なり。過あれば則ち至り、過なければ則ち止む。経と為す。曲沢に入る。曲沢は、肘の内廉の下、陥なる者の中なり。屈してこれを得。合と為す。手の少陰なり。」

「類経」(張介賓)の中ではこの篇の解釈として「これら五穴は皆厥陰心包に属する穴である。心包にあるのに心の兪穴としているのは心包絡は心が司っている脈だからである。邪客編にある”手の少陰経脈だけには輸穴がない”は正にこのことを指して言っているのである。」としています。

ではその邪客篇をみてみましょう。ここではどうして少陰心経だけ五兪穴がないのか?という質問に続いて問答が成されています。
「黄帝曰く、手の少陰の脈独り兪なきは、なんぞや。岐伯曰く、少陰は、心脈なり。心なる者は、五蔵六府の大主なり、精神の舎(やど)る所なり。其の蔵堅固にして、邪容(…い)る能 わざるなり。これに容(い)れば則ち心傷(…やぶ)れ、心傷るれば則ち神去り、神去れば則ち死す。故に諸邪の心に在る者は、皆心の包絡に在り。包絡なる者は、心主の脈なり。故に独り兪なし。」
「黄帝曰く、少陰独り兪なきは、病まざるか。岐伯曰く、其の外経は病めども蔵は病まず、故に独り其の経を掌後鋭骨の端に取る。・・・・故に本兪なる者は、皆其の気の虚実・疾徐に因りて以てこれを取る。是れ衝に因りて写し、衰に因りて補うと謂う。」