心虚証の研究・5「心経の虚」

・私は以前から「心が虚すると、神がなくなるから死んでしまう。従って、心虚はないのだ。」と言う論法は少し乱暴ではないかと感じていました。脾が虚したら直ちに後天の元気を得られなくなる、腎が虚したら先天の元気が尽きてしまう・・・という言い方はしません。現に他の臓器と同じように心臓も又病気になります。確かに急性の発作で瞬く間に死にいたるケースもありますが、慢性病として進行する場合は病気になったからといってすぐに死んでしまうわけではありません。また鍼灸や漢方薬が心臓の病気に対して無効であるという事もないわけです。慢性の心臓疾患の過程は時に数十年に及ぶプロセスを持ちますが、日々の臨床を通じてその過程の様々な段階においてこうした伝統医学が役に立つ場面は多いと感じています。
更に言えば実質器官の「心臓の虚絶」と経絡の「心経の虚」とをきちんと区別して論じることなく、一緒くたにして否定してしまっているような印象があります。邪客篇にも類経にも「(心の)経脈の方は外にあるので病を得ないというわけにはいかない」とあり、その際には心包経を運用するように書かれているわけですが、現状ではそうした記述に十分答えるような研究が行われてきたとは言えないように思います。心気の働きは神志を司るものとして心身に大きな影響を与えています。心経の虚は心気の働きを阻害して、各種の神経症状を引き起こすと考えられますが、今のままではそうした病気の治療に対する鍼灸治療の適応力を狭めてしまっている可能性もあるのではないでしょうか?
時に、経絡治療は心を治療していないわけではないという主張を聞きます。脾虚証を六十九難に従って治療する際、心包経を用いているではないかというわけです。このパターンでは心の陽気を補うことで脾の補陽を補助することになるわけですが、これは心の病の類型の一つを扱っているにすぎません。その他多くの類型をも包含するものには成らない様に思えます。心を主証として扱う治療法を研究することによってこそ、蔵象論や気血津液論から必然的に導き出される心の病の多様な類型に対応できるようになるのではないかと考えます。

・以上のように見ていくと、昭和以来の経絡治療の心虚証に対する考え方は、孤独な解釈である可能性が高く、再検討の余地が有るのではないかと考える次第です。私は本会も公式に「心虚証」の存在を認め心、心包もほかの四蔵と同じように、弁証と治療の対象にするべきであるという立場からこの問題を喚起すべく、心・心包の病症と治療に関する考えをまとめ、諸先生方のご意見、ご批判を頂きたいと考えるものであります。