心虚証の研究・2「心は五蔵六府の大主であり」

「類経」(張介賓)によれば「手少陰とは心経のことである。手厥陰とは心包経のことである。経脈は二つに分かれているといえども、その蔵は元より一つである。おおよそ病を治すときは心包絡の兪穴を用いる事で心を治療することができる。故に少陰心経のみ独り兪穴がないのである。」さらに「おおよそ臓腑経脈は臓と脈からなる。臓腑は内側にあり、経脈は外を巡る。心臓は堅固に内にあって邪が容易に犯すことができないが、経脈の方は外にあるので病を得ないというわけにはいかないのである。」
と解釈しています。心と心包の関係、心の特殊な性質に関する説明はおおむね歴代の医家の解釈を代表するものではないかと思われます。

本会顧問の池田政一先生の「霊枢ハンドブック」の中では、「(邪客篇で)黄帝が心経に輸穴がないのはなぜか、と質問しています。「本輸」篇で述べられていた五輸穴はすべて心包経に属する経穴でした。岐伯は次のような説明をしています。『心は五蔵六府の大主であり、精と神の宿るところである。その蔵は堅固で、病邪は絶対侵入できない。もし病邪が侵入した場合は死ぬ。したがって、心臓の病症をあらわしていても、それはすべて心包経が病んでいるのであって、心臓が悪いのではない。ただし、心の経脈だけが病むことがある。この時は、病症によって神門穴を補瀉すればよい。』以上のような理由で、心を治療する五輸穴は必要がないのです。 ところが、心が病邪の侵入を許さない、ということは、心の精気の虚はない、ということになります。古典医学では、臓の精気の虚があるから発病すると考えます。したがって、心虚証による発病はないのです。経絡治療家が心虚証を言わないのはこのためです。」となっています。

まとめてみます。
(1)霊枢本輸篇では少陰心経の五輸穴として厥陰心包経の穴名があげられている。
(2)霊枢邪客篇ではなぜ少陰心経だけ五輸穴の配当がないのか、と言う質問に対して、心臓は邪が入りにくい場所である、もしも心臓に邪が入ればそれは死ぬときである。
心の経脈は病むことがあるが、蔵は病むことがない。邪が心にあるように見えるのは実は心包が病んでいるのであるから、そのときは神門穴を使い、又心包経を使って治療するように、と書いてある。古来この文章は上記本輸篇の文章に対する回答であると解釈されてきた。
(3)日本の初期経絡治療家達は、これらの記述を読み、特に「其の蔵堅固にして、邪容(…い)る能 わざるなり。・・・・」の下りをもって「心に虚なし」と解釈し、心虚証を採用しなくなった。